僕はこの世界に責任があるんだ

 村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だったと思う。読んだのは中学生くらいのころなのに、終わりの印象は、今でもべっとりと頭にこびりついている。
「僕はこの世界に責任があるんだ」
 そんな台詞があったかは定かではないか、世界の終末に殉じる主人公は、ともに滅びることを選択していたはずだ。不健全で間違っているといわれるとそれまでなのだけれど、人間の世界への認識なんて、根っこのところでそんなに変わるものでもない。自分が関わってしまったことには、自分のセカイに取り込まれてしまったものには、どうにも責任を感じてしまう性質というのはある。
 エロゲーKanon問題もそんな感性から端を発するのだろう。
 エロゲーのテンプレートには"ヒロインを救済することで結ばれる"というのがある。なぜ救済することで結ばれるのだろうか? 救済の意味するところが本質を全うさせることにあるからだろう。本質を全うさせるというのは、ヒロインの唯一性を承認することでもあるし、唯一性の承認は恋愛と根っこのところで共通している。恋心は相手が自分にとって唯一だと見定めることに似ているからだ。
 一方でエロゲーの多くにはヒロインが何人かいる。そしてそれぞれのルートでそれぞれの物語によってそれぞれのヒロインが救われて主人公と結ばれる。
 その救いには確かに感動がある。私たちはその物語に参加し、主人公の行動を選び、そしてヒロインを救って、報われる。
 だが"ヒロインを救済する"ということは、物語の初期状態ではヒロインは救われていない、なんらかの不全を抱えていることになる。誰かを幸せにしようとすれば、その誰かは現状幸せではないといけない、とんでもない皮肉だ。
 そしてこの皮肉は、自分の選択によって救われないヒロインの物語が発生するという問題を突きつけてくる。
 誰かを救えば誰かが救われない。それをKanon問題といったりするようだ。
 この問題をそのまま訴えかけた物語に『君が望む永遠』がある。本来のストーリーの外、作品全体が所有していた問題をストーリー上に落とし込んでいる。
 誰かを選ぶことは誰かを選ばないことだと、三角関係で描いている。選択には常に罪悪がつきまとうよ、とでも言うのだろうか。
 選択は可能性の虐殺なのだから、それはそうかもしれない。

 久しぶりに秋田。
 春樹とイーガンとKANONと君のぞとクロチャンとYU-NOを並べて語る気だった。
 クロチャンは「誰にも選ばれない」というユニークな回答だなーってだけ言っておきたい。