天気の子

※ ネタバレは全く気にしていないので、見てから見てね。

天気の子を見てきた。私たちのことを忘れていないと新海誠が言っていたので、10年ぶりに更新されるブログがあっても良いんじゃないかなっておもった。このブログをちゃんと書いていたころ私は学生で、それからこのブログのことを忘れるくらい色んなことがあって、そして天気の子を見て、久しぶりに文章を書きたくなった。
新海誠の作品を見るのはほんとに久しぶりで、たしか雲の向こう約束の場所以来になると思う。Twitterなんかで新海の新しい作品が上映されるというのはなんとなく知っていただんけど、特に見ようとは思っていなかった。けれど誰かがエロゲーみたいだと言い始めて、選択肢が見えたなんていう幻覚の話を聞いて、それが面白くて興味を引いた。
実際に映画館で見てみれば、たしかに僕たちの青春の傍らにあったコンテンツが詰まった映画だったから、色んな人が色んなモノを見て色んなコトを言うのもわかるな、なんていう気分は消え失せた。
メタなことを言い始めれば、湯婆婆の呪いがやっと解けたとか色々あるんだけど、この作品をみてベタに語らないなんて年取った甲斐がないだろうって気分だ。
誰かの感想なんて全く見ていないのだけれど、何もわかってないのに語ってるんじゃねーよって気分だし、お前らが天気の子に触るんじゃねぇって気分だ。
Twitterにポツポツ感想も書いていたけれど、スガに記事を書けって言われている気さえしてきたのだ。
なぜスガか、スガだからである。スガのあのシーンがながければ、30歳過ぎて漫然と日常を過ごし、仕事と酒と漫画があればいいなんてそんな、ライ麦畑をすでに去ってしまった私には、天気の子に等身大の感情移入をするのは難しい。小さな日常にはちょっとずつ誰かの犠牲が積み重なっているし、あるいは大きな犠牲もあるかもしれない。この世界は狂っているのかもしれなくても、私は自分の日常を守っていかないといけないし、誰かの犠牲なんて「きたなーい」くらいの感想で終わらせている。それを悪いこととも思わない。
だからスガがホダカを連れ戻そうとするシーンは凄いわかる。私だって、あの見えない何かがあると信じていた自分を否定しないと、日常を過ごすのは難しい。情熱みたいなものがなくなったわけではないけれど、私が私として日常と向き合うには過去の自分を否定しないとやるせない。
あのシーンのスガは非常に丁寧に、醜く、卑屈に描かれている。お前のためだと言いながら、目が口元が自分のためだと訴えている。そしてホダカに否定され、警察に乱入されれば取り直そうとさえする。
にも関わらずホダカが警察に取り押さえられれば「お前らがホダカに触るんじゃねぇ」と警察に殴りかかる。
それは当たり前の行動で、だってかつてのスガであれば、僕であれば、ホダカのようにヒナを探しただろう。迎えに行っただろう。そこに理屈なんてない、信じているなら当たり前の行動だ。
僕はその存在を信じているから「天気なんて狂ったままでいい」「自分のために願って」とホダカが言うのに共感できたのだ。ヒナが還ってくることも当たり前なのだ。
ヒナが帰還し、雨は降り続け東京の大部分が水没した。そんな世界で「元からこの世界は狂っている」とスガはと言う。ヒナは今も誰かのために、届かない祈りを捧げている。ホダカは思う「この世界を狂わせてしまった」と。
それでもホダカは「大丈夫だ」とヒナに言う。根拠がなくても、世界のありようが変わろうとも、大丈夫だと言ってくれる。
世界が狂っていても、信じていたモノを失くしてしまった大人も、信じていたモノをいつしか失くしてしまうだろう女も、これからそれを見つける子供も、再会した少年と少女も水に沈む東京もひっくるめて「大丈夫だ」と肯定してくれる。
ホダカがそう言うなら、私も安心して日常に帰れるし、自分のために生きてもいいと思えた。それが直ぐに失われる感傷だと知っていても、僕はそれが嘘じゃないと知っている。
だからこの映画はあの頃に青春を過ごした人たちへの、今青春を過ごしている人たちへの、これから青春を過ごす人への、あるいは世界を狂わせてしまったかもしれない大人たちへの祝福であり、人間讃歌なんだ。
そしてかつて僕たちだった私たちにとっての、行きては帰る物語だ。ほんの少しの感傷だけを残して、明日からもまた命をかけて日常を過ごそう。この、狂っているかもしれない世界に、精一杯の愛をこめて。