『嫌オタク流』オタク議論の限界点

概括

 オタクはキモイ、というのがこれから書いていく記事でのテーマだ。なんでキモイかっていうと、『肥大した自意識』というオタクの特徴故で、これをメタな視点*1で理解してもらおうという試みをしていく。
 想定読者は「俺はオタクだろうか?」という人や、「どうも俺はオタクらしいのだよね」という人、「コンテクストとかメタとかいう言葉が好き」な人*2、「まったくオタクじゃないけど、オタクってなに?」と思っている人なんかを対象にしている。それ以外の人は読むなとは言わないけど、読んでも意味不明だと思われる。

オタクがオタクを語ることの限界

無駄無駄無駄無駄

 僕はそもそもオタク論は不毛だと思っている。というのもオタクは自己言及が好きだから、オタク論=自分語りに終始してしまう節があるからだ。つまり自分という存在をオタクという集団に重ねてしまい、自分語りを再燃させて延々と反論が起こり、無限ループが起こる。だからきっとこの記事も、自分語りの域をでていかないのだろうな、ならメタな視点でなんらかの見地があるように書きたいな、そう思っている。

オタクなんていないよ。オタクは二次元の生き物だよ

 こういうときはオタクの定義から始めるのが普通なのだけど、僕はオタクなんて存在はいないと思っている。そもそも趣味的領域の1グループをこいつらはこういう人間性をもつ存在だ、というのは無理がある。人それぞれにしかならないのだ。
 するとオタクという分類はいったいなんだ? なんでこんなに議論になる? そんな素朴な疑問があがる。これに関して意見を述べると、オタクの分類法は三つある、それゆえだ。その三つとは「オタクであることに執着する人」「オタク趣味をもつ人」「社会からオタクというわかり易い記号を与えられた人」の三つだ。たぶんこれで全部。
 要するに違うものを一つの言葉へ乱暴に押し込めてしまったために起きた捩れが混乱のもとになっている。「オタク」という想像上のファンタジー生物――仮にオタクキメラと呼んでおこう――をつくりだし、それを叩いたり礼賛したりしているのだ。まさに不毛。まさにキモイ。まさにオナニー。

オタクであることに執着する人

 オタクというのはルサンチマンを抱えた生き物だ、という言質があるが、その言質を信じる人たちは「オタクであることに執着する」オタクだろう。このルサンチマンというのは「迫害」というものから発生するのだが、冷静に考えてオタクである故に迫害された人なんていないだろう。というか趣味領域のグループなんだから、迫害される理由は「自分自身が自分自身であるがため」以外にあるわけがない。
 そして、迫害された感じをルサンチマンで埋めようとする人たちの一部は、その理由を「オタクであること」に求め始める。さらに内部からオタクを定義しようと試みるので議論はいっそう泥沼化していくのである。
 迫害されていない人でもこの部類の人がいる。自己嫌悪のナルシズムに捉えられた人たちだ。彼らは閉鎖的にぐるぐる回る自意識を自己嫌悪によって蓋を閉じ、自己陶酔し続ける無能な人間だ。迫害された感じを妄想し、あった事ととして消化してしまう。そして自身にトラウマがないことに劣等感を覚えて、「私は迫害されたオタクだ」ということにアイデンティティを求め始めるのである。まさに人間のクズ! ちなみに僕はこの部類のオタクです。

オタク趣味をもつ人

 この人たちは単なる趣味だし。以上終了。よくわからんし。
 適当すぎるので一言。たぶん萌えオタとかヌルオタが多くなる分類法じゃないかな。絶滅しちゃえ。

オタクという記号をもつ人

 もし迫害された経験が、真実オタクである為だった人たちはこの部類に入ると思われる。特に性質的にオタクというわけでもなく、純粋な趣味の一つだったのに何故かオタクグループに押し込まれた人たちだろう。
 オタクであることに執着する人たちは彼らに頭があがらない。なんせ自分のオナニーのネタに勝手に使っているのだから。ちなみに執着する人たちって、ヌルオタ、萌えオタを馬鹿にしている人おおいけどね。

そして『嫌オタク流

今回のダイジェスト

嫌オタク流

嫌オタク流

 で、この鼎談の話になるのだが、今までのようにオタクキマイラの話しかしていないものだから、まぁなんだかなぁとしか言いようがない。そもそもオタクがオタクを定義しようとすることに無理があるのだし、斉藤環に期待するしかないのかなぁ。
 前回記事で

 こいつはクセッーーッ!! ザーメンの臭いがプンプンするぜーーーーッ!

 と言ったが、残念ながら期待はずれ。意外と普通のことを言っている。どうせオタクの自己嫌悪系オナニーか、想像上の動物叩いて終わりだろうなと思っていたんだけどね。
 講師一人に話者二人がオタクについての所見を述べるという形式なのだが、ところどころにそれは違うでしょとか、あーまぁそうだねと、共感したりしながら読む飲み屋の雑談というか。まぁ真面目な本じゃないし、釣られたことはわかっていたから構わないんだけどね。
 細々と引用しながらなんか突っ込んでくという方法しか取りようがないので、今回は全体的な所感とどういう風に突っ込んでいくかを述べていくってことで。

人物

 更科しか知らなかったメンツなのだが、面白い集まりだったんじゃないかな。
海猫沢めろん:普通のオタク的感性をもち、言語化する能力をもつ人という印象。かなり素直な人だなと一番好感を覚えた。
中原昌也:口は悪いけど自分の感性に忠実なのはいいよね。自身の嫌悪感を社会に仮託するのはクズのすることだと思うのだけど、そういうのが全くないのが素晴らしい。好感を覚えました。
高橋ヨシキ:この人なにも言ってなくね? と思うのだが、中原で印象が薄れたのか、司会者っぽい役回りだったからか。よく2chやはてなやオタク界隈がで行われる、自分の嫌悪感を一般化をするのがむかつく。
更科修一郎美少女ゲームの臨界点での解説を、へーなるほどと思って読んでいたのだけど、今回の鼎談で信用しないことにした。その場の空気の望むことを言っているようにしか見えん。なんかビジネスの相手だから分析しているみたいなポーズがいやらしいし。

反論のスタイル

 このサイト、著名人は原則呼び捨てにしている*3。だから呼び捨てにしていることに含みはない。敬称つけるのには含みか、語呂の問題があるけど。
 僕の本音は「萌え萌え言ってる豚は屠殺されろ!!*4」だったり共感するところもあるんだけど、

諧謔」「自虐」「反逆」の三ギャグがなくなっていっている気がする

と海猫沢も述べているので、お望みどおり反逆する。*5実際にちょっと勘違いだろ、それはおかしい、あるあるとか色々突っ込みどころは豊富だし。
 この本で中原をどのように扱うかが難しい問題になっていて、オタク的文脈で読むと「彼はちんこ(id:hobo_king)」になってしまうのである。つまり読者=オタクがオナニーをするための竿。そういうキャラクター付けに陥ってしまう。hobo_king氏に関しては手前みそであるが、軸・ぶれていませんか? - Nobody tells the storyあたりを参照してもらいたい。あとネット書評家ととそれを牛耳る冲方スレの300あたり。世の中みんなちんこをしごく*6のが好きだよな、僕もだが。ちなみにこのスレでの僕のレスは>>348あたりが素直な感覚。
 中原の態度は捻くれた誠実さなので、竿として扱うのもいやだなぁ、というところがある。hobo_king氏に関してはむしろ積極的にネタと燃料にすべきだろ。常考。と思うんだけどね。
 笑って流すような類の本に生真面目に突っ込みをいれる諧謔と、今度はそれを真面目に話し出すようなオタク的風の息遣いを感じて欲しい。メタには真面目に読めるように努力はするので。
 ま、そんな感じで次回に続きます。

*1:この記事を書いているのがオタク、という視点

*2:横文字気軽に使うんじゃねぇよ、ファーック!!!と思っているので使わないけどね

*3:普段「禿(固有名詞)はキチガイ」とか「テラ子安」とか言っているのに、呼び捨てにしなくなるのはちょっと卑怯じゃねーの? という考えから

*4:生ごみは焼却してやる!! と主体的に言えないのが豚の悲しいところ

*5:反逆すること自体は反逆なのだが、反逆しろといわれているところへ反逆しようとする自虐を諧謔にしているというセンテンスね

*6:P・T P・T