エロゲーの批評について

人が楽しんでいることを、なんで楽しいのかも考えずに否定するのって頭がわるくね?ってお話。
いや、エロゲーの批評が楽しいの当たり前じゃんって話か。
 
論旨は以下
エロゲーは構造的にパラダイムシフトによる楽しさを提供しやすいものだということ。
パラダイムシフトってのは知性の働きで、構造の解体/解析とヒラメキによって成立していること。
構造の解体/解析は批評って行為をふくむこと。
よって、パラダイムシフトを楽しさとして提供するエロゲーは、批評によって楽しくなる。
 
もうQED、秋田で終わってもいいと思うんだけど、秋田で終わると評判が悪いので続きます。
 
ご存知のように、エロゲーというのは多く「マルチエンディング」です。いわゆる「○○ルート」という形式。
で、もっとも素朴な作品というのは同一世界観、同一キャラクターを使った短編集といえる形式。
一つのパッケージに複数の作品があるというのと同じ。
 
この一つのパッケージに複数の作品があり同一世界観で同一キャラクターってのは自然と、
複数の別個の話を一つの作品としてまとめるオムニバス形式になりやすい。
つまり並行するパラレルな話に相互作用をつくってパッケージ=作品にしようとするわけです。
 
他にもゲームと言う環境を使った構造レベルで同一作品とするやり方はいろいろありますが、*1
ゲームだけに非常に相性がイイんですよ。
そのせいか「構造」に対する遊びってのを深化させていった歴史がエロゲーにはあります。
古くはYU-NOとか。EVEってYU-NOよりあとだったよね? たしか。

そんなわけで、作る側の遊びにエロゲーマー*2達もよく応え、解体しまくったと。
それは批評であったり二次創作であったり、まぁ色々。*3
僕の半径5mの観測によると2000年代前半が一番盛んだったんじゃないかな。批評されるのが前提みたいな作品が多かった。

で、この構造による遊びによってどんな楽しさを提供してんだよって話になる。
例えば、殺害事件がおきる。犯人がいて被害者がいて、被害者の彼女は自殺した。スウィーツ(笑)。
この事件について、それぞれの立場でそれぞれが観測をする。
それは復讐劇かもしれないし、不条理かもしれないし、悲劇かもしれないし、あるいは喜劇かもしれない。
人はそれぞれの現実を通して事実をみるわけで、いっつも観測ってのはゆがんでる。
あるひとつの立場から見た事実を、別の立場からみれば別の事実になってしまう。 
 
観測地点を変えるのを繰返していくとですね、「見れないところから物事をみる」ということができるようになります。
つまり「想像の視点」を会得できるわけですね。心眼みたい。かっこいい!
 
さて、この想像の視点ってのは「単なる妄想じゃねーの」って話になるわけで、ここで批評の出番なわけですよ。
物語にも構造とロジックがあります。そうじゃないと電波としてしか認識できないからね。
この構造とロジックがいかなるものか? を分析してもっともらしい*4答えをえた上で、
答えを基盤に「想像の視点」を仮構したら? 
 
もっともらしい事実を観測できるようになります。
このもっともらしい事実が、与えられたどの観測地点のくびきから離れていて、美しいものならば、それはすごい感動ですよ。
霧の立ち込めた山を登っているとき、ふと視線をあげたら霧がさっと引いて、美しい山の景色が見えれば感動ですね。それと同じたぐい。
 
これがパラダイムシフトとその楽しさであり、パラダイムシフトを能動的に獲得するのにやりやすい手順が、今まで書いてきたこと=批評なんです。
 
さきほど述べたようにエロゲーってのは構造に遊びがあります。
パラダイムシフトを経験することで個別の物語が一つの物語へと生まれ変わるものだってあります。
逆に言えばパラダイムシフトを経験しなければ、一つの物語ではないということですらあります。
だから物語を獲得するための手順として、批評ってのは効果的だし、批評によって一つの物語が完成することだってありえます。
 
まるで「観測されなければ存在しない」ようでもありますし、
ロマンティックに言えば「作者と読者によって一つの物語を作り上げる」ってことですね。
そんなわけで考えてみて、楽しくなるならそれでイイじゃない。

秋田。

*1:ループとかね

*2:エロゲーマーってなんか響きがカッコいい

*3:批評って二次創作に分類されないのは不思議だよね

*4:蓋然性の高いとか書くと説得力があがりそうですよね