貨幣と知識
知識の価値が低下したために、今後は知識が必要なくなるといった意見をみかける。
ネットで調べればわかることを知る必要はなく、知識をどうやって運用するかを身に着けることが重要であり、知識を蓄えることには意味がない、といったものだ。
僕はまったくそうは思わない。むしろ知識を大量に溜めないとやっていけない世界になっていると思っている。
なるほど、ネットは知識の流通コストを下げた。量産コストのやたら小さい*1知識は流通コストが低くなれば安価になるだろう。インターネットは知識をたしかに安価にした。しかしそれは安価になっただけであって、利用価値が下がったわけではないのだ。
たとえばカップラーメンが100円に値下げしたとしよう。だが味は変わらないし、量も変わらない。利用価値はまったく変わっていないのである。
知識をどうやって運用するかが重要なのは、いつの時代も変わっていない。いつの時代も知識を手にいれることと、どうやって使うかはワンセットだ。
さて、知識を蓄えることに意味がなくなったというのはどうだろうか。
逆だ。むしろ大量に蓄えなければいけなくなったのだ。
さきほど述べたように、知識は安価になっている。簡単にするために知識ひとつをあらわす単位としてKという単位を仮定しよう。
1Kが100円だった時代、100Kだせば1万円と交換できた。だが今の相場が1K1円となったと思いねぇ。1万円と交換するには1万K必要だ。ただそんだけの話である。
今の話をおかしいと思った人も多いだろう。それは正しい。知識それ自体はたいてい金銭と交換できないからだ。
知識に付加価値をつけたり、知識によってなにかを生産しないと、お金とは交換できない。付加価値というと「美人のお姉さんが教えてくれた」でもいいし「実生活に役立つ」でもいいし、「汎用性や専門性がある」でもいい。人間不思議なことに、知識それ自体にはあんまり*2魅力を感じないのである。
つまり知識は運用されてはじめてお金と交換できるのである。
やはり運用が重要なのであって、知識を蓄える意味はないじゃないかと思うかもしれない。それは早計である。
当たり前のことだが、人は認識したもの以外を認識することはできない。
たとえば「これこれこのようなことをしたい」と思い、グーグル先生に聞いてみたとしよう。たまーに答えてくれるが、たいてい答えてくれない。「たしかこんな手法があったよな。この手法が使えそうだな。じゃあ、これとこれとこれを入力すればひっかるだろ」とやってみるとけっこう答えてくれる。「これこれには○○法を用いればよいだろうから調べよう」と調べれば、答えてくれないことのほうが少ない。
つまり目的に適切な手段*3を考えるのは人がやらなければならないし、手段を既知でなければ手段から考えなければいけない。手段を考えるにも既知の手段をしっていなければ調べなければならないし、調べるにも知識が必要なのである。
そして目的が複雑になればなるほど、必要な手段も膨大になり、必然的に必要な知識も膨大になる。逆に知識を大量に蓄えておけば、とれる手段は増え、達成できる目的も増えるのである。
目的を達成するために知識が必要だが、知識が安価になれば目的の原価は安くなり、目的は付加価値をより必要とするようになる。付加価値をもたせるには更なる知識が必要になり、知識を手に入れるための知識が必要になり……と、知識が安くなればなるほど知識の蓄積が必要になるのだ。
結局のところ、どんどん勉強が必要になるのである。