三年後のパンを約束する者は、三年後にもパンを約束する
分裂勘違い君劇場の読者に、一読しておいて欲しい本が二つある。
- 作者: アドルフ・ヒトラー,平野一郎,将積茂
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1973/10/01
- メディア: 文庫
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・記憶力に乏しい
・物忘れが激しい
この二点から自身の意思を伝播させる方法を語るのが主軸と言えるだろう。
- 作者: ヴィリーミュンツェンベルク,Willi Muenzenberg,星乃治彦
- 出版社/メーカー: 柏書房
- 発売日: 1995/03/01
- メディア: 単行本
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さて、この二つの本を合わせて要約すると、宣伝とは『一つの言葉を繰り返すこと』であり、宣伝の内容が実行されない場合、最終的には暴力が使用されることだ。
『歴史を学ぶと、人間が歴史から学んでいないことが分かる。』という名言があるが、一つ学んで置きたいのは「三年後の成功を約束する人は、三年後にも成功を約束する」ということだ。*3不確定の将来に対して、こうすれば成功するのだと言外に言っている場合、気をつけて読むのは、ほぼ読者の義務だろう。
宣伝・扇動という手法が即ち悪か、と問われれば違うだろう。手段に善悪は存在しても手法には善悪は存在しない。手法をどのように用いるか、によってことの善悪は変わるからだ。
分裂勘違い君劇場の手法は、大概『扇動』的手法が用いられている。それを大概建設的な方向に用いようとするので、ロマンチスト*4だなぁと思っていたりする。
そろそろ本題に入るが、扇動という手法は効果が高いため、非建設的な方向にも転びやすい。非建設的であり、三年後のパンが約束されれば、批判もすべきだろう。
一つの性質が同じだからといって、等価ではない
「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
さて、二つの書籍をあげて箔をつけ、中立のアピールも済んだところで本題。*5
そこに、ハゲタカエンジニアがやってきて、その工作機械を30万円で買い取ってくれることになった。
その機械の持ち主は、捨てようと思っていた機械を30万円で買い取ってもらったので、ハッピーな気分だった。
ハゲタカエンジニアは、その工作機械の複雑怪奇な構造を理解できるだけの高度な知能と知識とセンスを持っていたので、どこが故障しているのかを5分で突き止め、5分で修理した。
これによって、たった10分で、無価値なゴミでしかなかった壊れた工作機械が、3000万円の価値のある工作機械に生まれ変わった。
「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだより
この例示に対して嫌悪感を覚える人もいるだろう。そして対比としてもう一例をあげている。
そのハゲタカプロデューサは、「そのサイトに欠けているのは、コンテンツの充実でもユーザビリティでもなく、単に、そのコンテンツが、そのコンテンツを求める客に認知されていないのだ」ということを見抜く。
(中略)
エンジニアやグラフィッカーの工数をほとんど投入せずに、利用者を飛躍的に伸ばし、そのプロジェクトは高収益プロジェクトに大化けした。従業員も、会社も、顧客も、みんなが幸せになった。
こちらの例に、嫌悪感を覚える人はまずいないだろう。ここで『ハゲタカ』という比喩は、ポジティブな再評価がなされるように書かれている。
けどさ、ハゲタカへの嫌悪感って違うところにあるでしょう、と。ハゲタカが嫌われるのって信用を裏切ったり、信用を作る努力をしないからだ。
例えば最初の例で、ハゲタカエンジニアが「私には工作機械を修理する技術を持ち、10分でこれを直せます。30万円で買取り3千万円で売却します」ということを話すなら、誰も嫌悪感は覚えないだろう。
代わりに30万円で売ってくれる人は、誰もいなくなるだろうけどね。つまり自分に都合の良いことは黙って、相手に都合のよい事だけは言う、というスタンスが詐欺まがいと思われるのだ。
さて、ここで一つハゲタカエンジニア側の擁護をしてみる。別に黙っていたわけで騙したわけでもない、ましてや彼でなければ直せなかったのである。それを批判するのは豚の僻みだ。
なるほど、一見正しい。だが、ここに一つの疑問がある。では何故黙っていたのか、それが正当な対価でないと自分でも思っていたからではないか。潔白だと思うなら言っているはずだ。そこで説明しないのは、正当な取引でない自覚があったからだ。もしそうではないとしても、そう思われて社会的な信用を失うには十分な行為である。
と反論することも可能だ。
このような状況で、嫌悪感の原因とは別であるが、共有できる他の性質を持つ事例を挙げて同一であるとするのは、筋が通らないだろう。
また、後者の事例に置いても、優良なコンテンツであるという前提が置かれている。それらは地道な努力教の信者が作り上げたものだ。そもそも、地道な努力教の信者が作り上げたコンテンツが無ければハゲタカの出番など無い。この点において、ハゲタカは地道な努力に寄生しているとすら言えるだろう。
だが、ハゲタカとされるプロデューサーは、この事例において周囲の人を幸福にしている。つまり地道な努力教の信者達の生産物に、金銭的価値を生む方向付けを与えるのが真価であると言い換えても良いだろう。
だが、これって普通、意思決定って言わないか? そして意思決定を担当する人達を役員とかプロデューサー*6とか言うわけで、例示されている職の職分を全うする有能な人達なだけではないか。
また地道な努力教の信者と呼ばれる人達は、コンテンツを実際に作る人達であり、彼らの作るコンテンツは地道な努力によって、優良なコンテンツだったのだろう。つまり彼らは自らの職分に対して有能だっただけである。
だから結局「自分の職分に対して適切な努力をする」ことが重要なのであって、近道を探すとか、地道な努力をするとか、そういう問題ではないのだろう。
だから、ハゲタカと信者と分けて一方を賞賛するのはおかしい。むしろ両者が自分に欠けている物を自覚して、パートナーとなる人間を探したり、信用する方向へ動機付けするほうが建設的ではないと思うのだが如何か。
で、ここまでで分かると思うのだが、批判的意見ではない。むしろ同じことを言い換えているに過ぎないとも言える。なんでわざわざこんな記事を書いたかと言うと、AとBに分けてギスギスするような社会より、相互の信用で成り立つ社会の方が僕が好きだからだ。
個人的な感情で云々するなと言われそうなので、以下適当に3秒で考えた意見を述べる。
相互の不信でも、相互の信用でも、均衡さえしていれば世の中安定するだろう。ただ不信で均衡する社会って、一度崩れると崩壊への歯止めがしにくいと思う。信用で出来ている社会は地縁血縁で凝り固まったりという弊害もあるが、成功したいという人が成功しやすい社会より、失敗したくない人が失敗したくない社会の方が大多数の幸福に繋がるんじゃなかろうかと思う。*7
追記
地道な努力をする人は、近道する努力をする人を探さなければならないし、逆もまたしかりなので、互いの努力のスキームを提示して、議論することが建設的に思う。より有効な努力する人を見つけ出したり、実践したりすることがそこで可能になるのだから。それでこそライフハックでは?
あと、「職分に対する適切な努力」といっておいて、近道と地道を分けるんだって言われそうだけど、適切な努力以下の近道=組織の意思決定に関する努力と地道=プロジェクトを実現するための努力くらいの意味。