ものっそいどうでもいい話をいくつか

HNについて

 僕のHNはsなんだけど、半角全角大文字小文字の別はなしです。そもそもこの名前、自分の打ちやすさと、人の打ちやすさと、覚えやすさだけで付けた名前ですから。ただちょっと失敗したなと思うのは、sさんと打ち込む場合、途中でエンター押さないと「っさん」になってしまうことです。面倒くさい人はっさんでいいよ。
 我ながら配慮の行き渡った良い名前ですね、と自己満足に浸れるので。

本について語ったりするわけだけど

 実は物差し一つだけで測っています。しかもパワーがあるかないかという、滅茶苦茶曖昧な価値基準。とはいえ、力が伝わるか伝わらないか、も大事な要素なので、そこにも着目はしていたりします。
 力の伝達の話なのですが、剣道の踏み込みって左足の親指で床を掴むようにして蹴り飛ばすんですね。なんでかというと、人間の足って外に開くように出来ているからです。左足で蹴るようにして右足を前に出してもらえると分かると思うのですが、足が外へ向かっていくと思います。
 剣道はその競技的性質上、前へ鋭く大きく進むことが必要とされます。足が外に開いては、脚が居ついちゃうのです。それでは前に進めない。それを解決するために、親指に力を入れることで脚の筋肉に捩れをつくり、結果的に前へ鋭く進む力を得ることができるわけです。
 こういった工夫は作品の筋にも見て取ることができると。この工夫の領域のみを云々するのが「批評」と呼ばれるものなのですが、工夫のみではどうにもならんのが作家業の大変なところかもしれませんね。ちなみにいつだか「批評」の定義を作品として完成されているかに置いたことがありますが、これはプロの領域で批評する人達はそうですよね、という話。素人批評なんてものは、工夫以外にも云々したりするんで、それを批評というのはおこがましいのじゃないのという自戒なわけです。
 けど工夫って作品の本質的な魅力にはならないのが普通ですから、読み方を教えるというスタンスでもないと批評って意味があるのかなぁと思うのですが。ちなみに工夫こそが全てである、という作品も存在して、それらは文学とかシュールレアリズムとか呼ばれたりする気がしますね。後者に関しては地下鉄のザジでも読んで下さい。
 ちなみに漫画の多くは、文学とエンタメの中間にあるようなものが多い気がします。
 作品の力ですが、必死さや情熱や切迫感など、どれだけ人の心を切り刻む力があるかというものです。それ以外の面白さだってあるのですが、僕はそういうものは「面白いだけ」と表現します。心の中でね。悪いとは思わないけど、面白いだけの作品を書けるってことは、面白いものも書けるだろって思うからどうにも皮肉っぽくなってしまう。あとは今の世の中、面白いだけの作品の方が基本的に受けがいいから、それに対する反発もある。

他人から見れば書評みたいなことをやっている理由

 売れ線ではない作品の方が好きです。だから売れ線でない作品を書く作家が、これからも書いていけるように少しでも協力したいな、くらいの気持で書いていたりします。つーか、売れ線でない作品を話あえる人って少ないから、そういった作品の意見を交換したいなーって気持の方が強いか。
 西島大介とか、一部なコアなファンがいればいいやって人に関しては余り言及する気はなかったり。人気がないから人気がないような作家にスポットをあてたいものですね。その為にも人気のある作家に関してもたまに言及しようかなと。少女マンガや少女小説は、男性があまり読まないと思うので、男性ももっと読もうぜという気持で人気問わず取り上げるつもり。いや、人気のあるなしわかんないってのもあるけど。
 作家からすれば大きなお世話なんでしょうが、別に作家の為にやっているわけではないしなぁ。読者にとっての作家って、面白い作品書くから意味があるんで、書かなけりゃ、読まなけりゃ赤の他人だし。まぁ、そんな感じなんで、そんな感じで読みとってください。