賢明さに関するメモ

賢明さWisdomeは、書物を読むことによってではなく、人々を読む(リード)[知る]ことによって獲得されるのだという格言が、近ごろおおいに利用されている。そのけっかとして、たがいに相手の背後で無慈悲に非難しあうことによって、自分が人びとのなかに読みとったおもうことを示して、おおいに喜んでいる人びとがあり、こういう人びとは、その大部分は、そうするよりほかに、賢明であることの証拠を提出することができないのある。
 
リヴァイアサンホッブズ岩波文庫より

 耳に痛い言葉だ。ホッブズの生きたのは17世紀であるから、300年も前の言である。ネットでの論争や中傷を見れば、その頃からなにも変わっていないのではないかとすら思える。むしろ17世紀より酷くなっているかもしれない。人は比較することでしか評価できないから、如何に自分が優れているかを証明する方法として、相手を貶めることの手早さはあると思う。
 しかしながらそれは時に、無用な攻撃と反撃の繰り返しや、不毛な消耗戦を引き起こすことも、十分に知られているだろう。議論の方法をテンプレート化するのが有効かとも思えるが、それが今度は議論の方法から外れることへの攻撃を産むだけにも思う。人はまず、自分が優秀であるという思いから逃れた方がよいのではないだろうか。それが事実であろうと、なかろうと。
 ホッブズが繋げて述べるように

汝自身を読め

という労をとれば、我々は賢明であろうとすることのくびきから逃れられるのかもしれない。自身の無能を知り、嘆くことで、僕達の心のうちにほんのちいさなゆとりができるように思える。そのゆとりを人を読むことに向ければよいのではないだろうか。また、他人の心に映る自分がいったいどのようなものであるか、それは美しいのか醜いのか、少し想像を働かせて見ることも重要に思う。