読者は評者であるべきか、消費者であるべきか
良質な読者なら文頭を読むだけで理解できるように書いていくつもり。適当に斜め読みしてください。
序
この論において、読者は評者と消費者に二分される。二者は不可分のものであり、評者は消費者であり、消費者は評者でもある。そのどちらかの性質の強さによって、便宜的に評者、消費者と呼ぶ。
現在、人気とされるマンガや小説の売れ行きから、圧倒的に消費者が多いと思う。よって本記事の結論は「読者は評者たれ」である。消費者は大衆であり、大衆は豚だからだ。豚とはすなわち、傲慢と貪欲と怠惰である。それら人間の性質が表現を堕落させる未来は決して許容できない。
読者、評者、消費者
読者とはなにか? テクストを読む人である。まずテクストとは何かから述べよう。
テクスト
テクストとは意味を見出されたものだ。すなわち文字の羅列に意味を見出すことによって、文章はテクストになる。*1
あらゆるものにテクストは見出せる。例えば、絵画や音楽、マンガや陶芸、そういったものは一般的にテクストを見出しやすいものだ。その気になれば、電柱にだってテクストを見出せる。電柱に歴史性やオリジナリティを見出せばよいのだ。
マンガや小説はテクストでなければ面白いものではない。それらがストーリーを作らず、ただ文字や絵の羅列になるからだ。
評者
評者とはテクストへの親和性の高い人である。
ここまで述べたことからわかるように、日本に生まれて育てばほとんどの人間は、マンガや小説の読者ではある。よって読者としての性質が強い人を評者と言っているに過ぎない。
消費者
消費者とはテクストへの親和性の低い人、あるいは親和することを避ける人である。
評者の項で述べたのと同様に、読者としての性質が弱い人である。
読書の優劣
読書に優劣はあるか? ある。今まで述べてきたように読者としての性質は強い、弱いの問題であり、性質が強いものは弱い読み取りも可能だからだ。*2
どのように読書を受容しようとも等価、この言葉は強い読み取りがなされている段階でのみ許される言葉だ。
読者は消費者ではなく評者であるべきだ
消費者の増大にはデメリットがあり、評者の増大にはメリットがある。私の立場を明確にするため、一方に置いてのみメリットを強調する。
消費者の増大のデメリット
消費者増大のデメリットは表現が大衆化することである。表現の大衆化は社会の大衆化だ。完全に大衆化した社会は獣のみが住まうところである。そこには何も生まれない。
より複雑に、より曖昧になる現代では社会の大衆化は進む一方だろう。そしてやがて、大衆的でない表現はひっそりと隅に追いやられ、死滅するのを待つばかりになるだろう。それを許容するのは社会の死滅を許容するのと同義だ。その社会では人は機能としてのみ存在を許されるだろう。
よって大衆、すなわち消費者というのは、否定されるべき存在である。
評者の増大のメリット
一方評者とは、読書に無限の誠意をもつことが正しいと知る人たちだ。これによって、文化は先鋭化と洗練を生む。経済の原理が文化の衰退を許さないためだ。先鋭化と洗練は文化の成熟を作り出し、より豊かな社会を生み出す。
複雑化する現代において
人は常に大衆であり豚である。これは共有できる幻想が消滅したことによるものであり、抵抗は不可能だろう。あらゆることに見識を持つことは、現代では不可能なのだ。では、現代において大衆を脱却しようと動機付けるものはなんだろうか。愛と誇りである。
愛は誇り、誇りは愛
現代において大衆を脱却しようとすれば、人はドン・キホーテにしかなれない。それでもなお評者になろうとする動機は、小説やマンガ、人それぞれが好むものへの愛と誇り以外はないのだ。
もし、ある文化を愛していると思うなら、誇りを持って評者になるべきだ。それこそが愛の証明なのだから。
大衆の脱却
人は現代、豚であることを強いられるが、豚であると自覚して鳴かずに黙っているべきだ。もし、声を出したいと思うなら、吠えるべきだ。吠える者は豚ではない。
結論
読者は評者であるために、常に目を鍛えようと努力すること、それこそが文化を成熟させることである。そしてまた、その批評の目が無数に張り巡らされて初めて、現代の社会は機能する。表現は特に社会を表す傾向が強い。よってここに注がれる目へを注意深く観察することが、重要なのではなかろうか。