もう無理

 ('A`)マンドクセ。指摘が増えていって、書かなきゃいけないことが増え続けている。相手のフィールドに付き合う必要はないし、議論を絞ればいいんだけどさ。メンデェ。書けば書くほどめんどうだぁ。
 と言うわけでばっくれます。もう無理。
 あ、けど今まで出てきた意見全てには感謝しています。何を感じているか明確にできたのは本当なので。
 ていうか、ペトロニウスさんが僕の考えていることを解説してくれているので、詳述する形になっちゃうんだよなぁ。徒労だ。
 と、思ったけどネギまについて書いたことだけコピペして知らん振りしよう。元々発展性のない話*1だと思ってるし。俺が好きになるかどうかなんてどうでもいいじゃん。

切捨て

 疲れたし、面倒くさいし、自棄のやんぱちな気分になってきたので、一部の人を切り捨てます。今のところ読解力の高い人からだけレスを貰っているのでいいんだけど、そろそろ僕の文章力では我慢できない人が出てくるだろうし。もう猫被ってらんない。
 "古典的物語への文学的エネルギーの復活を要求する議論"というペトロニウスさんの指摘は正しくて、ネギまにそれを要求するのは正しいか、正しくないか、というのも議論せざるを得なくなるんです。物語が要求している、というのはレスを頂いた多くの人が肯定しているところですが、物語のもう一つの要求を退けることになるじゃないか、という指摘も非常に正しいと思っています。
 僕は作家を「僕の欲しい物をくれる人」ではなく「物語を作る人」だと思っています。だから作家を三流、二流、一流に分ける*2とすると、次のようになります。若本の声で読んで下さい。

一流の作家が何かわかるか?
読者に従って三流、
物語に従って二流、
一流は物語を操作する。

 のだよ、むぉりたぁ。
 当然、格が上がれば上がるほど売れなくなるわけです。だから古臭い倫理観を作家に押し付けようとは思いませんが、古臭い倫理観で作品を作る作家しか好きじゃありません。
 この枠に赤松を当てはめると、一・二流になれるのに三流にあえて留まる作家だと思います。だから赤松は(読者に対して)まじめすぎるきらいがあると思うんです。関係ないですが、赤松は秀才と言われることが多いですが、僕は疑問です。批評能力の高さと、読者へのまじめさ、キャラクターへの情の深さが、彼の天才をスポイルしてしまっていると思います。
 で、先の若本っぽい発言ですが、主人公なら次のように答えると思われます。

貴様のチンケな価値観を吹き飛ばしてこそ超一流! 超一流は読者を操作する!

 と島本っぽい答えが正解かなと。超一流はピラミッド構造を抜け出して、どこに居ようが関係ないわけです。超一流は、読者を情熱で叩き伏せるわけですね。他にも方法はあって、表ではただのエンターティメントをやって裏側で物凄い緻密な物語を展開させるような人もいます。職人芸の極致であり、滅茶苦茶震えますが、気づかれない可能性がある罠。
 後エンターティメントを否定するほど偏狭ではありません。画太郎も久米田も西本も否定しません。エンターティメント自体も好きです。
 で、僕の提示したとおりにユエやノドカを殺したって、赤松は二流か四流になるだけです。ネギたちが現実を突きつけられてこそ、「ほんのわずかな勇気」は価値を持つわけですが、一方関係性の楽園なんてファンタジーだぜ! って言い放つのと同じですから。
 だから新しいフレームワークの提示、ということを言っているわけです。僕にとっての赤松が『売れる一流』か『超一流』になるチャンスがあるので、言ってみたくなったんだろうな。だからネギまが好きな人にこそ考えて欲しいんです。
 成功が確約された世界で「ほんのわずかな勇気」は意味がありますか?

釣りになってるかも

 皆さんに本質的には理解していただけているとは思うのですが、面倒くさくなったのでぶっちゃけておきます。
 ユエかノドカを殺せ、と発言しているわけですが、わかりやすさから抽象度を高めて、という形で最初の記事を書きました。「ネギのクラス」が好きな人には刺激が強く、結果として釣りになってしまっているかも。
 それと今すぐ殺せ、と言っているわけではないことを理解していただきたい。だって今死んだってツマンナイもん。だから死を書くことがテーマを強く打ち出すことにはならない、という意見も出てくるし、いやいや他にも書き方があるでしょ、という意見もでてくるのだと思います。他にも書き方はあるわけですが、今の素材で考えるとそれが思いつくという話です。発想力が足りないのは重々承知の上ですが、対案なしに言うよりはましかなと。
 で、なんで今すぐ殺してもつまらないかというと、現状では死んだとしても、まぁいいかで済むからです。モブが死ぬのと大差がないんですね。赤松のキャラ造詣は記号性が高いので感情移入がしにくいんです。今までの赤松作品とねぎまの最大の違いは、記号性の消化がしっかりとされていることだと思います。それが行われていなければ、僕は見向きもしなかったでしょう。
 記号性が消化されていますが、まさに肉体を持った人間と錯覚はできないので、まだ早いんです。
「もし夕映かのどかを殺したら、俺がでていって赤松をぶっ殺す」
 くらいまで、感情移入度を高めて貰ってから殺されると、怒り狂いながら手放しで賞賛できるわけです。キャラクターに死んで欲しかったら殺せなんて言いません。殺して欲しくないからぶっ殺せ! って言うんです。その程度にはユエやノドカには感情移入しています。
 一方現在進行形の作品ですから、他の素材を用意して説得力をもたせながらテーマを記述する可能性は十分にあると思います。ただ、どこかでネギが「現実を思い知る」ことが無ければ、テーマが陳腐化する、それが僕の指摘です。このままだと、その現実がぬるそうだよな、と思うんですけどね。現実が厳しければ厳しいほど「ほんのわずかな勇気」の輝きが強くなります。
 それと勘弁していただきたいのは、残酷な世界の記述が普遍的に物語に必要か? という議論にもっていかないでください。そんなことは一言も言っていないです。

追記

 某アダギウムさんとは関係無い話しかしないんだからねっ(ツン)
 読み方がわからなかったんだけど、キャラクターを殺せという短絡さに対する反論だったのか。キャラ設定と役割分担に対しての理解は浅いでしょう。いまいちピンとこないので。それ以外は概ねなるほどと思いましたし、僕もそれが言いたいのですが、と思いました。

*1:ああ、けど発展性を見出してくれた人がいるのか。だから答えようと思ったのね、僕は。

*2:普段このような作家を評価する姿勢をとらないし、とるのも嫌いなんですけど、規範を守るのも疲れました