反響へのお答え
おわ。。。 - Nobody tells the storyの反響が予想外に大きいので、レスをば。僕としては大したことを言ったつもりが無かったのと、アップして一時間くらいでやっちゃった感があったので、レスするのがつらいです。自分語りしなきゃいけないし。
ネギまに求める話じゃないよね、というのは記事をあげた時点で自覚的で、でも読みたいという内容でした。
しかし、そこでネギがあらためて責任に目覚め、彼女たちをたたかいに巻き込んだことを後悔する、ということはありえない、と断言してもいい。いままで『ネギま!』の物語は、一貫して、その反対の方向へ進んでいるからです。
『魔法先生ネギま!』のリーダー論。 - Something Orangeより
これは正しいと思います。というのも、記事をあげたあと考えたんですね。「じゃぁ、どんな物語ならツボなんだよ?」と。
それは、ユエとノドカのどちらかを殺してしまえ、というところから考えると、生き残った方にネギが弾劾されるのが最高です。そしてエヴァ辺りにとどめを刺されます。そしてここで唐突にその生き残った方と傷の舐めあいを開始して、ぐちゃぐちゃどろどろで共依存な関係を築きあげていったら最高だね。*1そう考えました。そして冷静になって、もはや少年漫画じゃないしネギまでもないじゃん、と。
ネギまではない、というのは海燕さんが指摘する反対の方向だからです。僕が前々回の記事で言ったネギまの魅力とは方向性が違うからです。ただ僕が、ネギまにそれを求める理由もあります。
結論を先に書きますが「確かに「残酷な世界」は僕の求めているものではある、けれど物語自体もそれを求めている」です。
責任の在り処
sさんの世界観というか倫理観が強く出ている捉え方だなーと思ったんです。
『魔法先生ネギま!』と『ディバイデッド・フロント』を読んで~僕は不快にならないな | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむためにより
ペトロニウスさんの記事は、たまに告発されている気分になるのですが、今回の記事はピンポイントでした。前回記事のコアと矛盾を発生させる根源は確かにそこにあります。責任の問題に関して、皆様それぞれの意見をいただきましたが、色々思うところが。
まず僕の世界観、倫理観を語るところから始めたいと思います。チャットで鳥蛇さん(id:crowserpent)が「当然の認識が人それぞれ違う」と仰っていましたが、その違いを僕が説明せず、当然の前提として前回記事を書いてしまったことは反省する次第です。
僕の世界観、倫理観の文脈には
- 「責任なんて他人にあるわけがねぇ」
- 「人間は奴隷なしには生きていけない」
があります。自己にのみ責任がある、という意識をネギに自己投影した結果、作品の構造と相まって、それを作品に期待してしまったわけです。
リーダー(人を率いる者)とフォロワー(ついていく者)は、究極的に平等だと思っています。
『魔法先生ネギま!』と『ディバイデッド・フロント』を読んで~僕は不快にならないな | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむためにより
たとえ、かたちの上ではリーダーとフォロワーに分かれるとしても、本当は対等な人間同士なのであり、そうである以上、リーダーにもフォロワーの意思を覆す権利はないのだということ。
『魔法先生ネギま!』のリーダー論。 - Something Orangeより
僕はこれらの意見に対して肯定的です。ただそれは外のものとして見ている限りの話です。僕はリーダーではないので、普段フォロワーの視点で「ついてくって決めたのは自分じゃん。上が無能なんて言い訳にもならん」と思っています。
ではネギにその意識を投影してみたとき
リーダーには、フォロワーに対する無限責任が発生するものなんですよね。あくまで倫理的にはですが。
『魔法先生ネギま!』と『ディバイデッド・フロント』を読んで~僕は不快にならないな | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむためにより
となります。その倫理的な無限責任に対して、どのような解をだすかは個人(あるいは諸作品)によって別です。当然無視したっていいんです。あくまで倫理的なものですから。
また自己にのみ発生する責任に関して
いまのネギが責任から目を逸らしているのだとすれば、目を逸らしていない行動とはどのようなものでしょう?
もちろん、だからネギは偉い、とは思いません。はっきりいうなら、その自責そのものが不当だし、もっというなら傲慢だと思う。ぼく個人がそう思っているというだけじゃなく、作中でもはっきりとそういうふうに描写されている。
『魔法先生ネギま!』のリーダー論。 - Something Orangeより
それは傲慢であるという意見も正しい。僕みたいな資質にかけた人間がそういった価値観を持つことは、醜悪ですらあります。けど「ヒーロー」だと違います。
リーダー*2としての資質を持つキャラクターが自己にのみ発生する無限責任に対して背を向けない性質を備えていると、「人として滅茶苦茶カッコイイ!」のです。
完全な英雄として実在できる人間はいないでしょう。だから実在の人間がこの性質を持てば破綻する可能性は限りなく高い。周囲の人間の多大な支えを必要すると思います。そして、多大な支えこそが英雄に、その性質を作っていくのだろうなとも思います。
ただヒーローとしてのカッコよさと人としてのカッコよさは違う物だとは思います。
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ネギはヒーローとしては新城に近いことは間違いありません。また、僕の前回記事は「ネギは新城になれ」となってしまっています。これは明らかに間違いでしょう。ネギはネギというヒーローになれば良いのですから。海燕さんはグイン・サーガの一節を引いて述べています。
リーダーがフォロワーの信頼に応える最大の道、それはくよくよと自分の決断を悔やむことではなく、ただ、かれらの決断を感謝した上で、自分の信じる道をまっすぐに進んで行くことなのだということ。
それがわからないうちは、どんなに賢くても、やはり「バカ」としかいいようがない。これは知能より、むしろ器量の問題なのかもしれない。
『魔法先生ネギま!』のリーダー論。 - Something Orangeより
確かに一つのヒーローの形として素晴らしいものだと思います。ネギの将来のあり方としては十分にありえるでしょう。ただ現状のネギは、
くよくよと自分の決断を悔やむ
キャラクターです。
ぼくは、ネギはむしろ過剰に責任を感じていると思う。ネギが自分の責任から目を逸らしているとは、具体的にどの描写のことでしょうか?
『魔法先生ネギま!』のリーダー論。 - Something Orangeより
まさに「自分の決断を悔やむ」ことこそが、他者への責任の放棄です。リーダー、ヒーローとして悩むべきは「他者への責任」であると思います。既に発生している「他者への倫理的な無限責任」にどう葛藤するか、どのように責任を果たすか。ネギの問題意識がそこに向いたとき、僕は「ネギが滅茶苦茶カッコイイ」と思うでしょう。
こういった「他者への責任」をネギまに求めることは間違っているか、というと間違っているが、間違っていない、という解になると思います。それは少年誌であり赤松作品であることの要請と、世界観の要請の葛藤であるとも思います。
世界観に要請されること
僕の世界観の文脈を「人間は奴隷なしでは生きていけない」と述べましたが、これは僕の実感の問題で少し的外れで悪し様に言い過ぎている嫌いがあります。それは僕が思春期のころに第三世界*3の存在を知ったときに受けた衝撃からくるものです。
僕たちの物質的な幸せは、多くの人から収奪していることでなりたっている、そう思えたからです。富が偏在しなければ社会が発展しないことを省みれば、一面真実を捉えているとは思っています。幼稚な考えであることは認めますが、僕の責任の持ち方と相まって罪悪感を覚えさせているので、なんとも否定しにくいものなのです。
これをもう少し抽象的にいうならば「人は他者の犠牲なしには生きていけない」といえます。そして犠牲の上に物質的な幸せを獲得している自身が、幸せでないことに深い罪悪感を覚えたのです。
超を退けたネギは
「・・・超さんの計画を阻止した僕が、立ち止まるわけにはいきません・・前へ進まなければ」
と述べています。つまりネギの世界観に「犠牲にしたものへの責任」「他者への責任」への葛藤が取り込まれてしまっているのです。他者への責任を果たし続けなければいけない世界、それこそが「残酷な世界」である、僕はそのように思います。
日常と非日常の再帰構造=ねぎま串方式は少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:ネギま!編でイズミノさんが提唱しています。僕はこの分析を支持します。
ですが先のネギの発言はねぎま串を破壊する発言であると認識しています。
日常と非日常
- 日常=生活=学園=関係性=リアル
- 非日常=冒険=戦場=バトル=ファンタジー
ネギまは日常と非日常をいったりきたりするのは確かでした。そしてまた、はっきりとセパレートされたものでもあったのです。それはエヴァや超などファンタジーこそをリアルに生きてきた、通常いわれる「残酷な世界」の持ち主です。
けど、ネギパーティは自ら非日常へと足を踏み入れています。つまり最早、関係性こそがファンタジーの世界です。そしてエヴァは述べています。
『お前のような真っ直ぐで才能ある前途有望だが世界を知らぬ若者(ガキ)には それを思い知らせるのがもっとも難しい』
非日常=戦場のリアルを知る人が、既にその世界観を提出しています。実際はそこまで厳しい世界じゃなくてもいいんです。ただ、厳しい世界じゃなければエヴァも超も「世界は厳しい」ことを言い訳に自分の無能から逃げていた小物になります。
それは作品として、僕には好きになれるものではありません。
ようは、ぬるい!って言ってるんですよ*4
『魔法先生ネギま!』と『ディバイデッド・フロント』を読んで~僕は不快にならないな | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむためにより
今ネギまは日常のリアルをとるか、非日常のリアルをとるのか、その岐路に立たされていると思います。どちらをとっても「ネギま」という作品を裏切ることになりますし、作品に誠実であるとも思います。
テーマ上においては、関係性による目的の保証が失われるのか、「ほんのわずかな勇気」が陳腐化するのかの二者択一として現れるからです。
ここまでを纏めると、ねぎま串の静的(static)な構造を破壊し、それらが融合する動的(dynamic)な物語を選んだため、矛盾が発生したということです。これに対する一つの解法として一度切り捨ててからの融和を提示しました。
ですがこれは、やはり「ネギま!」ではなくなるという海燕さんの指摘も物凄い的を射ているものだと思います。
関係性のリアルは楽園として描かれていました。その楽園を破壊する行為だからです。
前回の記事での僕の結論「好きになる日は来ないだろうから、次の作品を早く書かないかな」へと繋がるんだと思います。そして恐らく僕が赤松健に真実求めているのは、僕の陳腐な考えを破壊してくれるような「新しいフレームワークを提示するような作品」*5なんだと思います。ただそれって作家に対する過度な要求でもある気がするんですよね。そして今までの赤松作品を見る限り、僕のような読者ではない読者「関係性の物語」と適度なエンターティメントが好きな人=大多数に対しての誠意を選ぶと思います。だから「ユエとノドカを殺しちゃえ」という攻撃的な言質に繋がるんですが。いや、というか赤松健がやったら結構大きな意味があって「豚は死ね」くらいの意味合いになるわけでね。作品としては新たなフレームワークの提出より完成度が落ちることになりますが、赤松健に惚れますね、アナーキーでカッコイイから。
僕の倫理観と世界観、ネギまの物語構造を完全にセパレートして書くべきだったのですが、うまく分離できませんでした。読解しにくいと思います。申し訳ない。
レス
ここまで異論を頂いたことで思考を深め、前回記事からもう一歩踏み込んで語りなおしたものでしたが、レスに入ります。
ペトロニウスさんへ
えっ?
僕は、この記事の内容に、同感だけれども(笑)。
チャオは死ぬべきだった!
と力説しましたもの(笑)。
えっと、聖☆高校生が好きな時点で、イタ物好きに該当すると思いますよ? ついでになりますが、安達哲の『桜の唄』を、もし未読でしたら是非。
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バロック化して、拡散したいまのエンターテイメントのマーケットや政策スタイルでは、望むべきではないもの・・・というかそもそも売れないもの、という気がするのです。
(中略)
そういう意味では、sさんの指摘する『ディバイデッド・フロント』は名作だよね、たしかに。
えー、自分でやりまくっていてなんですが、高瀬彼方をこういう文脈で出されるとへこみます。しかも対比の対象が赤松健。泣きそうです。ジャブが左ストレートになってます。
貴兄は、意見が凄く一貫していますね。
勘弁してください、とにかく信用されないために一貫性の無さと無責任さを主張しようとしているので。
izuminoさんへ
今日の捕捉と、映画『300』のペルシア視点について - ピアノ・ファイア
うーん、キャラクターへの責任はどこから要求されるのか? というと物語から、だと思うのですが、普通の少年漫画の物語はそれを要求していないと思うのです。それとスプリンターは読んだはずですが、記憶が。たしか社長の息子がスプリントだったと思うのですが、ちょっと探してみます。昔の小山作品は揃えているはずなので。
ワンピースを引き合いに出されると辛い。ぼくワンピースがさっぱり理解できないんです。唯一理解できるのがウソップなんですが、それ以外のキャラクターはどうも。
アレクサンドロスに関しては勉強します。
三碧星さんへ
はじめまして。
物語から追い出された時点で、超はシナリオ上、殺されたも同然だと考えています。シナリオライターに、そうさせず、物語を続けられる技量がなかったのだと、私は見切りをつけました。事実、そんなシナリオはいくらでも考えつきますし。
テーマ記述のタイミングとしては、学園祭編でそれをやるのは早すぎると思いますよ。むしろやりすぎちゃったと思うのですが。
世界の残酷さや理不尽さを表現するのに、登場人物の死は必要不可欠ではないのです
それは作品の世界観に依存する問題でしょうね。皇国で味方が死ななかったら非常に薄っぺらい物語になると思います。ネギへの責任追及という形でならキャラクターの死を書くのは決して陳腐ではないと思うのですが。
ここが要点なのですが、世界はネギ君達を中心に回っていないということ。
いまいちわからないので、考えて見ます。作劇上そうでなければならない、と仰っているのか、ネギまの世界ではそうなのか、どちらでしょう?
あと何をしていようが、言葉は言葉だと思いますよ。
海燕さんへ
パターナリズムの問題点は、相手のためを思ってしたことがかならずしも本当は相手のためにならないところにあります。本人はリスクを犯してでも為し遂げたいと考えていても、あらかじめ先回りしてその可能性を摘み取ってしまったりする。
僕は結構保守的なので、こういう考えって賛同しにくいんですよね。そもそも相手のためではなく他者への責任の追及としてのあり方だと思います。守らなきゃいけない、という自己に負わせる責任は、一概に否定できないものでもあります。これは子供をどこまで放置するか、という問題でもあると思います。確かに子供を保護することは、子供の自由意志の否定ではありますが。
パターナリズムからの脱却、というのはむしろ父権的人物に対して何を示せるかこそが重要だとも思います。
そして、このひとのためなら死んでもいいとまでひとを心酔させること、それこそ、最高のリーダーの条件といっていいでしょう。
理解はできますが、その結果本当に死んだときに発生する責任に目を背けるような姿勢なら、どうにも好きになれるキャラクターではないです。*6
はしさんへ
http://d.hatena.ne.jp/hasidream/20071122/1195757542
存じ上げていましたが、意見を交換するのは初めてですね。はじめまして。
たしかに酷い目にあえば済む話ではあるんですが、取り返しがつかないとぬるいなぁ、という不満は残ってしまうのが『そういう層』の業ですね。
田村由美面白いですねー。確かにこの話の流れではBASARAは微妙ですが、面白いことには変わりないので良いんです。ちなみにディバイデッド・フロント、最高です。7Seedsが好きな方なら、間違いなく来ると思います。
それとアージュが好きなら是非『螺旋回廊』を。確かにインモラルなのですが、インモラルであるからこそモラルの高い作品でもあると思います。自分の支配欲と暴力の悦びに反吐がでそうになりました。逆説的にモラルへの回帰を望ませる作品であるとも思います。その点2は弱いのですが。
楊さんへ
ネギま!部屋(楊さんのページ別館)ネギま!関連サイト巡回(11/23)
えっと、お名前を間違えていたら申し訳ありません。はじめまして。
これは盛り上がりそうな記事だなぁ・・
勘弁してくださいorz。
もう言いっ放しで逃げたい気分でいっぱいいっぱいです。
ただ、確かに私が色んなサイトを見て感じますが・・
ネギま!の好きな人の大半はこの展開は望まない気がする・・
たぶん、こういう展開は無いだろなぁ・・
そうだと僕も思いますよ。赤松健が僕の考えを屈服させるようなテーマ記述をしてくれると嬉しいなぁ。
えと
直リンを避けている方へ。コメントを返すべきじゃないのかなと思っていますが、もしコメントしろよ! と思っているのでしたら書き込みを。
それと、俺が抜けてるわ! 無視かよ! と言う方も、書き込みをお願いします。
疲れた
とりあえず、この状態でアップしますが、ちょっとディバフロと絡める文章が続くのですが、頑張って書きます。
やっぱ無理。