如何に死すか問へ

 以前から高瀬彼方*1の布教活動を行いたいと思っていて、どういう文章なら魅力を伝えられるだろうか考えていました。そしてある程度構成が練れたので、その前段としてこの記事を書きます。
 山本常朝と三島由紀夫高瀬彼方の前座になってもらおう。
 長い上にかなりの電波(啓発的なことを論理性をもたず言うこと)を含んでいるため全部読まずに流して読むことを強くお勧めします。割と普通のことを言っているのは「二 円筒に生きるボク、ワタシ」くらいです。そして糞長いです。
 文中著名人は敬称略。なんか不自然なんだもん。

一 武士道

 子供のころ剣道をやっていたせいか、武士道に興味がわくことがしばしば。武士道とはなんぞと、ふと考えるくせみたいなものがあります。ある日ぐだぐだ考えていると、一つの言葉が思い出しました。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり*2
 いつもなら訳がわからんと無視するのですが、そのときは違った。この言葉にはっきりと武士道の真理を感じ取りました。*3
 良く知られていて、言葉だけが先行している感のある言葉だし、葉隠を読んだこともないのだけれど、この言葉には不思議な、人を惹きつけるような力がある。
 僕の直感はこの言葉を「どのように死ぬか追求することこそが武士道である」そのように捉えました。死を追求することは美の追求であり、生を追求することは利の追求である。円が点に収斂する様が武士道である。そんなイメージが頭のなかで飛んだり跳ねたりし始めました。で、それが本当か確かめるために葉隠を探していたのですが見つからないので三島由紀夫葉隠入門から説いていきます。
 それを伝えるのがこの記事の二次的な目標です。また前段にもあるように、高瀬彼方の布教を第一の目的としていますので、かなり粗雑な論説です。あとで改めて書くかも。

二 円筒に生きるボク、ワタシ

 武士道をはじめとして、思想は「世の中をどのようにみるか」という問題を強く孕んでいます。つまり世界観の話ですが、これを物語の構造を例にとりあげてみたいと思います。*4
 ペトロニウスさんは物語について
 永遠の日常 VS 成長(=ビルドゥングスロマン*5
 と述べています。
 この二分法は妥当なものだと思います。これを図にしてみると
[:]
永遠の日常は円の中をぐるぐると回り続ける物語であり、

対して成長は右に時間、上下に成長を軸とした物語である、と言えます。
 ここで疑問なのは、永遠の日常と成長は排他であるか、です。*6永遠の日常も時間が存在すること*7、成長も上をみるときりがなく永遠の日常になること*8。この二つからこれらは排他の関係にないと考えます。
 そこで円筒物語モデルを考えてみました。

 これを一方からみると、四角に見え、一方からみると円にみえる。よって、みる角度の違いが物語り構造を違うものに見せるのだ、ということです。
 実際には物語りは次の矢印のように推移していくと、このモデルではいえます。

 赤線が永遠の日常系、青線が成長物語系です。
 我々が物語を、成長と日常というモデルで捉えるように、世間も同様のモデルとして捉えている。だからこそ物語にも「世界観」という言葉が適用される。*9
 日常モデルで世間を捉えたとき、あなたは世界の繰り返しへの倦怠と、空虚への嫌悪を覚える。成長モデルでは物語(=人生)の終わりに空しさを、上限(=目標)ないことに徒労感を覚える。
 この二つによって、生きることに倦怠感と嫌悪感を催すというのは凄く自然なことだと思われます。太平の世では多くの人がそう感じるでしょう。

そんななかで、江戸時代の豊かな元禄文化を思い出すと、日本人は、やっぱり日常の小さなことをかなり楽しめる民族で、金魚や牡丹の交配を楽しんだり、意味不明の短い言葉遊びで遊んだり、永遠の日常をダラダラと楽しむすべをよく知っているのですね。
『らき☆すた』に見る永遠の日常〜変わらないものがそこにあるより

 同じ太平の江戸時代、人々は同様に感じていたのではないでしょうか。*10だからこそ武士道という人生モデルが考え出されたのです。*11
 では武士道という物語モデルはどのようなものか? 武士道は円錐です。

 円の収斂される点=死であり、そこに行き着く螺旋こそが武士の道である。
(*補説)

三 D/A

 Dead / Alive は Digital / Analog のどちらか、生と死は離散的(digital)か連続的(analog)か*12、がこの節のテーマです。上手いこと言ったと良い気になっているので、形容詞じゃねーかと突っ込むのはお止しになって。
 三島由紀夫葉隠入門に享楽主義者の話があります。

「生きている限り死は来ず、死んだときにはわれわれは存在しないから、従って死を恐れる必要はない。」

 人が死を体験できないという哲理です。つまり生と死を排他関係と指摘しているわけです。これは離散的な思考法であります。

イギリス人は、鉄道そのものを集めたり、とにかく変な趣味に走る人が多く、現実的で実用的な民族なのでしょうね。

フランス人は、恋と性愛に走りました。不倫は文化だ、とか口走った日本の芸能人がいますが、精確に云うと、この不毛な日常世界を、恋愛という物語で美化してしばし忘れてしまおうと考えただけです。

ちなみに、ドイツはこの不毛感を埋めるのに、ナチスドイツの全体主義を選びました。
『らき☆すた』に見る永遠の日常〜変わらないものがそこにあるより

 たぶん西洋人は死と生を離散的なものとして捉えていたんでしょうね。*13これは先ほどの物語モデルと同様です。すなわち終わりによって全てが消滅するんです。
 では武士道モデルではどうか?
 武士道では生と死を離散的とせず連続的に捉えます。だから「武士道とは死ぬこととみつけたり」と死を指向するのです。*14

四 再び武士道

 葉隠入門では生き方について、葉隠聞書に注釈をいれるような形の本です。そこに葉隠れの引用があり今日討死討死と必死の覚悟を極め、若し無嗜みにて討死いたし候へば、かねての不覚悟もあらわれ、敵に見限られ、穢なまれ候*15とあり、武士がいかに美を大切にするかがわかり、美しい死に様こそが武士の鑑という理念の一端が見られます。
 また美しい死に様を求めるために、常に死を意識して行動するようにという説教でもあります。また死を人間の究極の到達目標としているのです。死に向かい収斂していく生、これが武士道が円錐モデルです。
 到達目標に死を置く物語モデルとしての武士道、死へのアプローチの行動モデルとして武士道、この両義性によって武士道は人生への説教として力を持つのです。
 行動による収斂、その基準はなにかといえば、美です。美は主観的なものですが、ただ自ら思う美に身を任せるかというのは「日本は恥の文化」*16というのにも反するし、恥をかかないようにという葉隠の教えにも反します。では外から規定される美に身を任せるべきかといえば「気違ひになりて死狂い(しにぐるい)*17するまでなり。又武士道に於て分別出来れば、はや後るる(おくるる)なり。」葉隠)との言にも反します。
 では美をどこに置いていたか、それは仏教でいうところの「縁起」ではないでしょうか。

五 縁起

縁起の意味は、関係の中での生起であり、小部経典『自説経』(1,1−3菩提品)では、これは

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
と説かれる。これは「此」と「彼」とがお互いに相依相成しているのであり、それぞれ個別に存在するものでないことをいう。すなわち有・無によって示される空間的にも、生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることが説かれている。
縁起 - Wikipedia

 とあるように、縁起は我と彼(世界)の関係性を示す言葉です。すなわち我と彼の溶け合った曖昧なところに美を求めることによって、武士道の美が生まれるというわけです。
 これを図示すると赤のところが縁起にあたり、そこに生まれている美を基準としたのではないでしょうか。

 そしてまた、美に基準を置くことによって、

 あれほど行動の行き過ぎを認めた『葉隠』が、ここでは社会の秩序、その和の精神と謙譲の美徳をほめたたえている
葉隠入門より

と三島の指摘する矛盾も、矛盾ではなくなり一つ体系へと消化される。

六 美によって物語を収斂させる力

 悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japanによると

悲観主義 PESSIMISME

[これ] は自然的なものであってその証拠[PREUVE]に満ちている。何となれば人は誰でも煩悶[chagrin]、苦悩[douleur]、病気、或いは死を決して免れ得ないからである。元来悲観主義は、現在は不幸ではないがこれらの事柄を予見している人間の判断である。悲観主義は自ずから体系の形をとって表現され、(そう言ってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企て、あらゆる感情[SENTIMENT]の悪い結末を予言する[:PREDICTION]ものである。悲観主義の根底は意志を信じないことである。楽観主義は全く意志的である。

楽天主義 OPTIMISME [・楽観主義]」も存在することを知った。オプティミズムは、

生来の悲観主義[PESSIMISME]をしりぞける為の意志的判断。

 とある。人間の死という予見を肯定し、それを究極目標に掲げる武士道はまさに、オプティミズムな世界観だろう。*18死を肯定することによって、肯定される生の収斂という軌跡「死狂い」はまさに逆説だ。
 閉じない世界に失望する我々にとって、また宗教や思想を信じることが難しくなった我々にとって「死ぬことと見つけたり」という観念は苦い良薬として姿を現すのではなかろうか。

七 結論

 武士道という物語は死を究極の目標に指向する。それはちょうど円錐が、丸い円から点へ収斂する様に例えられる。そして、収斂の方法は、縁起に美感の基準を置き、意思によって美感のままを行うことである。
 それが「武士道とは死ぬことと見つけたり」である。
 まっこと武士道は死狂ひなり。

八 関連書籍

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠入門 (新潮文庫)

対訳 葉隠

対訳 葉隠

全文読んだ方向けのお願い。


*補説 エロゲーは拡散していないか? という議論は当然だろうけど、これは誰かよろしくお願いします。とりあえず、円筒の先が分岐していき、物語の強度が落ち、管と管の間に隙間ができるからメタ的視点が盛んに導入されるんじゃない? と適当なことを言っておきます。

*1:ライトノベル作家

*2:葉隠聞書、山本常朝

*3:電波ともいう

*4:物語を人生観、世界観と同列に扱う妥当性については検討すべき点

*5:久しぶりにブローデルの名前を見たより

*6:引用を見てもらえば分かりますが引用元では対立概念としています

*7:弁天様が「毎年」諸星家にくるし、作品も終了する

*8:悟空がスーパーサイヤ人になり、2、3と進化していく

*9:文章的な問題で断言していますが、もっと考察しないとだめだね

*10:町人文化なんて粋でない突っ込みは勘弁な

*11:断言は男の美学。あとでちょっと話すけど

*12:数的か量的か、とも言える。デジタルとアナログの説明が上手くできないのは十分に理解できていないってことだなぁ

*13:これも検討しないとね

*14:だから検討しろと。生と死は分かたれるものではなく、両者相似たものだ、みたいなことが言いたい

*15:今日こそ討死と覚悟をきめろ。もし不覚悟ならば、その死を穢される

*16:引用元失念。原典読まないと……。

*17:しぐるいじゃないよ

*18:ですます調、書きにくくなってきました。だるいです。文章だと人を見下したような言い方になるし