mixiからその一。契約と責任
『契約―再契約』の物語類型を語るためのインフラ整備みたいなもの。
当然ですが契約と責任はセットで語られるべきですね←前提 。
契約を『ロマン的契約』と『社会的契約』の二つに、
責任を『倫理的無限責任』と『社会的有限責任』に分類します。
それぞれの意味は以下。たいした意味はないんですけどね。
ロマン的契約
ロマン的契約は「騎士と淑女」とかのイメージに行きやすいから、そうしました。元は中二的契約*1だからランサーのゲッシュ*2とかそういうの。破ったら全人格を自身で否定しないといけないような契約です。この契約が原始的で直感的で、本来的と言えるでしょう。
社会的契約
契約の範囲と責任の範囲を限定したもの。この契約が履行されるように国家が契約を担保しますよ。国家とはそういう契約を誕生した瞬間に結んだって前提にしましょうねっていう社会契約論とかんかなー。
社会的有限責任
社会的契約に倫理的無限責任を持ち込んじゃうと、だれが取りきれるか! って話になって倫理過剰だよねって話。そうすると罪のお仕着せになっちゃって、むしろ倫理に反している。法律が代表的かな。
本題
ロマン的契約と倫理的無限責任がセットで、
社会的契約と社会的有限責任がセットですよ。←作業仮説
では、ロマン的― 社会的 の関係と、
倫理的 ― 社会的 の関係は?
どのようにマッピングしうるか、という疑問。
ロマン的契約は元来、社会的契約も含む概念である。ただし、社会に置いてロマン的契約をベースにすると倫理的無限責任が発生するため、それはよくないよね、と社会的契約に限定して語る。
多分犯罪の話は分かりやすくて「判決があり罰を与えられ、それを通過すれば罪がない」とする、これが社会的契約と社会的有限責任。
ではロマン的契約と倫理的無限責任は何か? というと、ちょっと宗教的になるが「僕はこの世界に責任があるんだ」と思ってしまう感性。これは多かれ少なかれ誰でもあるはず。犯罪者に対する社会的制裁を生む感性でもあると思う。
原罪なんかは「生まれた時に世界と契約した」って感覚から派生するんじゃないかな。
決断主義の誤りは、自己責任の議論になってしまうことで
「社会的契約に対しても倫理的無限責任を負え」と(他人には)言ってしまうことだ。自己責任ってのは大体そういう言葉だと思われる。つまりは倫理過剰な故に倫理に反してしまう状態。
ではイージーな契約とは何か? っていうと
「ロマン的契約を社会的契約くらいの規模で考えて判子を押すこと」
だから、その責任の重さを知った上で
「再契約のはんこを押すこと」が描かれる、と。
例えば、ランドリオールのDXは大人なので「社会的契約ではあることを知りながら、倫理的無限責任の重さを十分に知っているので判子を押さない」キャラクターとして認識できる。ところで立場が上になればなるほど倫理的無限責任を追求される、ってのは日本的感覚なのかな。
同じ大人のジャンプのトリコは小松が遺書を書いているのは、大人としての自身の判断なので、危険な場所に連れて行く。つまり自身には倫理的責任はないと思っているし、小松を守る必要はないと思っている。ただし倫理的責任とは必ず契約には派生するので守ることはする。そういったキャラクターとして読み取れる。
少年漫画ってのはどうも「倫理的無限責任」が問われやすく、それを突き破る話が多い。そこに少年漫画らしさを感じることすらあるだろう。
こういった責任と契約のバランスを考えて判子を押すのが、現実的な話だよね。どこでバランスさせるかってのは、本人の判断に任されることだ。
とりあえず責任と契約の議論はこの辺で結構見通しが良くなるんじゃなかろうか。出会いが相補になるってのが本当は肝なんだけどなぁ。
*1:id:izuminoさんのいう「中二病的な契約」
*2:誓約