適当に稼動

 twitterで書いたけど、こっち向きだった。
 はいてない自意識百万本のショーケース というタイトルで記事を書こうと思ったがやめた。はいてない人はきっとインキンとかそういう理由ではいてないんであって、それを突っ込むのも違う気がする。問題なのはブルマはいている人をみて、あいつがはいてるのはブルマだからあいつはぱんつはいてないと言い出す人々であったり、人の家に押しかけてこいつは裸族だからぱんつはいてないんだと言い出す人だったりする気がする。往々にしてそういう人がぱんつはいてないという話。ただややこしいのは、ネットスペースはどこまでが自分の土地であるかって問題。あとは庭だからってぱんつはいてないのはゆるされるかとか。
 自宅かどうかは公共性の問題に繋がるわけだけど、この見分け方のポイントはおおよそ「読み手の選択性」に関わるんではないかなと。blogはリンクががんがん張られることを前提にできているから、公共性は高いわけで、もし公共性をちょっと低くしたければ僕のように無駄な文章を増やして、句点をしばらくおかない文章やら分りにくい文章やら書いたりすることで対応も出来るわけだけど。
 んで、以前まきがいさんに「sさんって愚痴を良く書いているよね」って言われたけど、いまいちピンと来ていない。blogのほうにはなるべく愚痴を書かないようにしている。パブリックする価値や意味がない文章はこっちに載せないようにしている。個人的な悩みはmixitwitterで書いて自意識のくだを巻いている。あげた二つは「読む側が書き手を選べる」って点で、公共性を低いと見ているため。だから2chなんかは逆に公共性が高いと思っているから、ななしさんでも価値や意味のあることしか書かないようにしている。
 というモデルケースを示してみるってことにここら辺の文章は意味があったりするんで、そういう意図を汲んでくださいね。
 あとは「他人の自意識」なんてどうでも良いんだよってのを前提においてあったりする。主体と客体があるとして、客体からのまなざしを主体は想像すると。それを自意識って呼ぶわけだけど、主体の想像で客体のまなざしを勝手に決めるのは筋が通らんわけで。主体が勝手に客体を評価するように、客体は主体を勝手に評価すればいいと思う。そのまなざしを肯定してもらいたかったり、否定してもらいたかったりってのは、主体の身勝手だ。身勝手を絶対に許さんとは思わんけど。
 ただコミュニケーションの上で、お互いのためにぱんつはいてた方がよいし、中身は重要じゃないんだよね。上に書いたように客体は主体の自意識を無視してまなざしを注ぐんだから。だからちゃんと、人に見られるところではぱんつはいて生活したほうが良いよね、と思う。
 鬼のぱんつは良いぱんつらしいので、どうやったらラムちゃんのコスプレをうまくできるか? って考えたほうがよいのじゃないかな。