スケール・シンボル

 物語のスケールは主観的な尺度によって決定される。では誰の主観か、が重要になるのだが、これはキャラクターの主観である。したがって「世界平和のために魔王を倒す」も「彼と付き合って幸せになる」も、物語のスケールを定義しない。物語の目標に対する苦悩、歓喜がスケールを定義する。
 しかしながら「世界平和」と「彼氏を作る」の間には、客観的な意味での規模=スケールの差が存在する。「世界平和」のために「彼氏を作る」のは想像し得るが、「彼氏を作る」ために「世界平和」を実現するのは想像しにくい。
 また、二つの目標ではそれぞれ、とるべき手段が全く違う。「世界平和」を目標にするなら、好きなあの子にアプローチするという手段における努力は違和感を作り出すし、「彼氏を作る」を目標にするなら、剣術を研鑽するという手段における努力は違和感を作り出す。
 さて、往々にして物語では目的に対しての手段が適切でないケースがある。むしろ適切でないから面白くすらある。『バタアシ金魚』では「ソノコ君と幸せな家庭を築く」ために「水泳で金メダル」をとろうとしたりするし、『イリヤの空、UFOの夏』では「二人の思い出を守るため」に「世界」守ろうとする。その目的と手段の一致していないところがドラマを牽引する力にもなっている。
 この目的と手段の不一致が作り出されるとき、必然的に読者は「なんで?」という疑問を持つ。このなんで? に対する回答がなければ、たいがいの物語は面白くならない。「釈然としない」「作家のオナニー」などと言われる。
 しかしながら理路整然と、もしくは世界の複雑さによって疑問に答えようとすると、読者にとっては「わかりにくい」物となってしまう。*1
 そこで必要になるのが「シンボル」だ。「よくわからないけど凄い!」と言わせる壮大さや「愛はすべてに勝つ」という、論理をひっくり返す仕掛けだ。「筋」に対する「シンボル」である。
 一方「スケール」にもシンボルが必要ではないだろうか。つまりスケール的違和感を消滅させる仕掛けである。スケールの大小がひっくり返る時、「変」という感覚を消化させる「シンボル」の存在の有無によって、わかりにくさを解消できるのはないだろうか。

うん、まぁ

 あまり自分でも信用していないことを言ってみた。物語の(客観的)スケールが大きくなると、必然的にシンボルが必要になるよな、と思う。例えば「キャラクターの死」は、上昇への強烈な意志を他のキャラクターが持つのに*2わかりやすいシンボルになると言った具合に。
 キャラクターの死を物語が獲得しない場合、当然ながら「スケールに相応しい能力」を身に付ける必要がある。そうしないとキャラクターが身動きを取れないからだ。必然的に物語は失速し、面白さに欠ける状況が続く。この修行を面白く魅せる作家も存在するが、あまりいない。そこでやはり、物語を加速させるシンボル「敵」「実戦」という仕掛けによって、筋の動きの中でレベルアップすると面白くなるのかななどと思った。
 うーん、個人的に修行だろうが実戦だろうが、叩き潰されたり克服する瞬間が好きなので、そういったものへの溜めを感じないと面白くないなぁ。というわけで、他の人はこう考えているのかしらな話。だめだね自分でも信じられないことを書くのは。

*1:そういう複雑さを好きな奴はマニアって言うんだよ?

*2:あるいは「お前は俺を怒らせた」など