LifeHack不要論

 なんとなく嫌いなので、なぜ嫌いなのか考えてみた。無目的なパワーゲームに陥ることがやたらと多いからだ。無目的なパワーゲームは、ネット上であろうと実社会上であろうと、ただの害にしかならない。
 孫子がこんなことを言っている。

百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也。

百戦百勝は、善の善なる者には非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。
――孫子 謀攻篇(講談社学術文庫 浅野裕一

 ほとんどのLifeHackは如何に他人に勝つか? という視点で書かれていることが多い。なぜそのような視点になるのか。恐らく、LifeHackは戦略、戦術的な思考から生まれるからだ。
 戦略、戦術は目的に従って展開されるものである。よって、「よりよく生きる」「より有意義な人生を送る」という視点では「よく」「有意義」などの言葉は、万人それぞれ別のものになる。
 そこで「他者より」というキーワードを挿入することで、少し一般化できるのだ。他者よりよく生きる、という観点では、他者は敵として捉えられる。そのためパワーゲームに打ち勝つ方策、になる。
 目的の為の戦略、戦術ではなく、戦略を戦術を有効活用するための目的を捻り出さなければいけなくなる。しかも、わざわざ敵を仮定しなければいけない戦略、戦術だ。
 ここで、孫子の言葉が効いてくる。なぜパワーゲームをするのか? という問題だ。パワーゲームを無目的に行っても、損失を増やすだけである。例えば友人関係にパワーゲームを持ち込む意味はあるだろうか? コミュニケーションは、知識と感情の交換だ。コミュニケーション自体が目的な友人関係にパワーゲームを持ち込んで何が得られるのか。僕には一切思いつかない。
 また、ネットを見ると、このパワーゲーム自体が目的化している議論が散見できる。
 人と意見が合わない、と思った時には少し考えてみることが重要と思う。なぜ相手はその発言をしているか? そこに目が向かなければ、ほぼ間違いなく有効な議論を得ることは叶わないだろう。
 ネットというツールは情報の交換を行うスペースである。自身の送りたい、受け取りたい情報がなにか。それを踏まえて戦略を策定してみてはいかがだろうか。大概はパワーゲームが不要であることと思う。