魔法先生ネギま!

魔法先生ネギま!(20) (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(20) (講談社コミックス)

魔法先生ネキま! 赤松健
 ネット上の知り合いに好きな人が多いし、面白い作品ではあるけれど僕は好きではない。面白いだけで好きな作品は、マンガ喫茶で済ますのが僕のやり方なわけだが、マンガ喫茶で何回か読み直すことが多い作品である。
 連載を追っかけているのだが、連載を追っかけていくだけでは訳がわからなくなるのだ。とにかく情報量の多いマンガである。大体一学級の構成員まるまるキャラクター化するとか無茶過ぎだろ。誰が誰だかわからなくなることが非常に多い。一応ネギまが好きな人に突っ込んでおくと、全員が個性的でちゃんと覚えられるという主張は間違っています。モーニング娘。のファンしかモーニング娘。のメンバー全員を答えられません。同様にどんなに個性的だろうが、しっかりとフューチャーしてくれないとむりむりむりむりかたつむり。特に個性でなく関係性でキャラクターを覚える、僕のようなタイプには不可能。ちなみに僕は茶々丸が好きです。人格(?)的に最もバランスの取れたキャラクターだと思うのだけど、ロボットがそうだっていうのが面白いよね。

魅力

 この作品、語り口が稚拙だと思うことは多々あるものの、かなり丁寧に作りこまれたジュブナイルだ。ジュブナイルというと、やはり成長と自己肯定が物語のキーになる。成長のみ、自己肯定のみ、成長と自己肯定が描かれているが相互作用がない、という作品は多い。しかし、ネギま! はそれを丁寧に語ろうとする。赤松健は物凄い真面目な作家だと思っているのだが、たぶん正しいだろう。ギャグの作り方、薀蓄の量、薀蓄の書き方、取材の丁寧さ、あらゆるところに真面目さがでている。ただちょっと真面目すぎるきらいはあるんだが。
 さて、なぜこの物語のテーマ描出が丁寧なのか。いくつかのポイントに分けて考えたい。一つはネギの成長物語、一つはネギの自己肯定の物語、一つはネギとその生徒たちの関係性の物語、そしてそれらの相関である。

成長物語として

 成長物語としてのテーマは超が名簿に記していった言葉において表現されている。たしか「己が望みをなせ、望みは得られるだろう」といった言葉であったと思う。
 つまり自己の目的に対して従順に事を為せ、という発言である。この考えに対して、一つの誤謬が指摘されている。すなわち他者との葛藤が失われていることであり、自意識を簡潔にしてしまうことだ。自意識のカオスが維持されない状態、つまり目的に従順である瞬間こそ人間は力を十分に発揮できる。その点、一面の真実をついているのだが、カオスの維持されていない自意識は柔軟性が低い。
 これらのことが表現が説教で行われている点が、関係性の物語の描写に穴を作ってしまっていると思うのだが割愛する。
 さて、柔軟性の低い意識において人間は機能(Function)に堕落する。それがアスナら年長者的振る舞いをする者たちの心配として表現されていることが多い。そしてまた、自らの目的と排他の目的を持つものを排除せざるを得ないという葛藤となって、ネギの思考をパンクさせている。

自己肯定の物語として

 さて、自意識のカオスを保ちながら目的の遂行を成し遂げようとするネギは、自身の目的に対して確信をもたないと身動きがとれない。ネギのアイデンティティが自己の内部にないことが、彼の選択肢を制限する。エヴァを中心とするアイデンティティを自己の内部に保有するものは、ネギに対してその選択肢を提供していたりもする。
 では前述の葛藤に対してネギの選んでいる道とはなにか? それは「答えは出ないという答え」を受け入れることである。そしてそれは、自らの責任において、葛藤を受け入れたまま目的を達成しようとする意志力なのである。
 しかしながら葛藤を受け入れたまま行動することは、目的に対して行動する自己を肯定するが、目的自体は肯定しないのである。では目的自体に対する保証をどのように持つのか? それは人間関係である。他者の信頼、期待、他者に対する責任によって、目的を肯定する。

相関において

 そしてそれらを相関させ、「行動」という結果へと駆動させるもの、それが作品全体に置けるテーマ「わずかな勇気」である。