差別という構造が生み出す差別

まさに「意識してないことも差別」となるわけです。ただしそれは個々人の責に帰せられるものではなく、ぼくも含めて構造化した抑圧の一翼を担っている和人すべての問題です
――http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090112/1231783080より

 東京で生まれ育った僕は、差別への認識が非常にうすい。少なくとも東京では、差別は不可視だ。差別があるというのは、どうも同じ日本でのできこととは思えないくらい遠い話だ。
 それでも、差別された過去もあるし、差別されている今もあるのだろう、そう思う。就学や就労、あるいは悪意の対象になるといった差別が事実あるなら、それは是正されるべきだ。これは「アイヌの差別なんてみたことない」と言う人の多くだって同意することだろう。
 けど、アイヌの文化を積極的に残したり、公用語とすることには賛成できない。それらが文化である以上、自然に形成され、自然に滅亡するものだとしか言いようがない。*1
 それは、有村さんの「構造化した抑圧」と「和人すべての問題」という意識は「個人が全体の悪意に対して責任をもって罪悪の意識を持ちなさい」という結論に陥ると思えるからだ。
 不可視な差別しか知らない人間にとって、抑圧という構造は当事者でないものも当事者にする。つまりマジョリティであるというだけで「抑圧の一翼」に組み込まれてしまうのである。
 これは、抑圧者が抑圧の構造に抑圧されるというねじれを生み出している。狭い視野では被抑圧者の存在に抑圧される私、と認識されうるものだ。

アイヌ差別を見聞きしたことがないのは差別の完成だよ

意識してないことも差別

 そして保護することも差別を助長するならば、我々にできることは抑圧者であることを自覚し、ただ見えない誰かの悪意に対して反省をすることだけになる。
 差別とは、何らかの属性によって不当に人を判断すること、というのは概ね同意が得られると思う。
 和人として生まれたことで「抑圧者」という不名誉を甘んじなければならないなら、それは構造によって指さされた先には、差別される僕たちが見出される。
 こんな不毛な状況を、僕は倫理的に誠実であるとは思わない。このような状況である以上、アイヌの問題や同一性のある色々の問題もまた、忘れ去りたい過去にしかならないからだ。
 ならば、なにをすれば差別が解決されたと言い得る状況なのか? なにをし得るのか? なにをすべきなのか? それを問うべきではないだろうか。
 事実が消せない以上、本来、このような問題に解決は存在しない。その上で未来の問題を解決するために、僕たちは過去の問題をもみ消すようなアクションをとるべきなのだと思う。
 そして、何かを実行するために問いたい。
 社会にとって、なぜ差別がいけないのか?
 ある種の偽悪なのだけれど、そこを通過してはじめて、解消すべき差別としてのアイヌ差別が見えてくるように思える。

*1:学究的なアーカイブとして残すのは賛成する。できる間にやっておいた方がよいように思える