自信があれば何を言ったって良い

 作り手に媚びる必要はないが、あえて反発したり挑発したりする理由も、またない。批判的な意見であっても、的確なものであるならば、作り手の心に届くのではないだろうか?
――作者さまはみてる。 - Something Orangeより

 僕が常々疑問に思うのは「作者ってどこまで自分が描いたモノのことを理解しているの?」ということだ。もしかしたら僕の作品への愛は、他のどの読者よりも、作者よりも深いかもしれない。僕の作品への理解は、他のどの読者よりも、作者よりも深いかもしれない。
 もしそれが真実だったら、作品の価値や意味を伝えることをできるのは僕だろう。もしそうなら、いくら作者がそれは違うと言ったところで意味はない。
 こんな小話がある。

 ある作家の息子が、父親の作品について「この時の作者の気持ちについて述べよ」という設問のある宿題をもらった。息子は父親に、その時の気持ちを聞いて答えとして提出した。
 そして彼は宿題を返してもらい、設問を見る。
 赤いバツがつけられていた。なにせ彼の書いた回答は
「締切りに間に合わせようと必死だった」

 真偽は定かでないが、作家もまた書いた文章全てを意識して書いているわけではないのだろう、というのは納得してもらえると思う。作者の考える内容よりも、書かれたものは、より整合性のある面白い内容であることもあるだろう。
 いちいち作者の意図を探すよりも、自分の読んだ内容と書かれている内容を交互しながら楽しむほうが、よっぽど粋だ。読者にとって、作者の意図は作品内容の一部でしかないのだ。

批判と賞賛

 じゃあ読者と作者の関係を考えたときに、お互いの意見は等価なんだから何を言ったって良いかっていうと、それも違う。
 誰だってたいがいは、悪口を言われたら傷つくし、褒められたら悪い気はしない。けど、自分を理解したうえで悪口を言われるなら、それは忠告やアドヴァイスになって感謝することもある。逆にまったく的外れな褒め方をされたら、腹が立つことだってあるだろう。
 では理解の問題か? と言ってもそれは違う。人間、自分のことがよくわかっていないことはよくあるし、よくわかっていないことを他人の方がよく理解していることだってある。いわんや作品をや、だ。
 二つの意見が出てきたとき、どっちが正しいかなんて簡単には言えない。どっちも正しいかもしれない。正しいか分からない意見が自分のものだったとき、胸を張って自分が正しいって言えるかだけを考えて、言ってしまえば良いのだ。それがみんな納得できるものなら受け入れられるし、納得できないなら否定される。半々なら賛否両論だ。
 自分が人の意見を評価するように、誰かも自分の意見を評価する。それを受け入れるだけなのだ。
 だから否定された時のことを考えて、誤解されることも考えて、自分の意見を伝えようとすればいい。そうやって考えたときに、最後にその意見を出すか出さないかは、自信が決めることだ。
 作者の意見と真っ向から対立したとき、作者が自分の意見で傷ついたとき言えますか? 

オレが間違っていたんじゃない! 作者が間違っていたんだ!

 それが問題だ。