キャラクターが生きている感じ
アダギウム(id:adagium)さんとのコメント欄でのやり取りが面白かったので編集。ネットの良いところは年齢や立場を超えて、相手が降りてきてくれることですね。感謝せずにはいられません。これはblogを始めて本当に良かったなと思うところ。
やり取りに関しては、合意を得るための議論ではないので意見交換に近い形です。それを踏まえて読んで下さいね。恣意的な編集だし。*1
アダギウムさん=a 僕=s です。引用前にa: s:として表記。
計測
a:
「生々しければ勝ち」だとか、「エロければ勝ち」とかって価値感をデッチ上げると批判は早いもの勝ちっていう単細胞向けの原則になるわけです。ドラクエのステータスで言えば、すばやさが低いから戦士はダメって言ってるようなもんで、一部分だけで全ての評価を決定してんじゃねー!って話です。
s:
逆に、力が低い戦士は戦士としてどうよ? ってのは当然あり
基準作成基準
s:
百個漫画があれば、百個の基準で漫画を測ればいいと思っているし、基準の違うものを比べる意味もさほどない
どんな基準で測るのが適切か? って問題
a:
同様に、私なんかが図書館戦争を「あまーい」とかで評価してることを「本質を突いてない」と批判されたらごめんなさいって言いますけど(笑)
「何を基準とするか?」というと「本質であるか」ってのが大事ですね。「本質とは何か?」「本質は一つとは限らない」など、結構難しい話。藪を突くと「本質の本質の本質の本質の(ry」ってなる危険の香り。そこのところは
s:
全部主観的に決定されるものですから、それが妥当か? って議論は当然あってしかるべき
a:
主観とかセンスとかの領域ですし、相対的な冷たさはあっても、絶対的ではありませんからね
ここに関しては議論を前提とした時の話ですね。個人で考える場合は「主観」を保証するためのファクター(数字や前例や理論)が必要になるのかな。
キャラ立ち
a:
いわゆる「キャラ立ち現象」こそが皮膚感覚や生々しさのことなんですよね。少なくともキャラ立ちしていれば生々しくはなる。難しいのは、それが単なるパターン認識なのか、キャラ立ち現象なのか
s:
キャラ立ちってキャラクターの(内面的)輪郭がハッキリしているってことだと思うんですね。そうすると逆に生々しさってのはなくなってしまうように思う。
a:
私は単純化しちゃえば「キャラ立ち=生々しい」って考え方をしてます。キャラ立ちって、キャラが勝手に動き出して話をひっぱるだとかの現象を伴う話でしょう?
生々しくないってことは程度の問題か、パターン認識でキャラが創られているか、読み手のレベルの問題かではないかと。
s:
(キャラが勝手に動き出して話をひっぱるに対して)
記号で済んじゃうんですよね。役割とか属性の話で。
役割・属性ってのは上品に言い換えると使命・天命なんですよね。そこに僕は生々しさを感じないんです。
役割から逃げ出そうとしたり、疑問を抱く「エゴ」の部分こそが生々しさだと思うんですね。感情や理性を超えたところにある、どうしてもそうせざるを得ないような性質とでも言いましょうか。
a:
人間らしさとは何か?という時に「神ではないもの」としてしまうのなら、天意に逆らう部分に対して生々しさを見つけることは正しいでしょう(たぶん)。その場合、「主体」というものの認識において私とはズレが生まれてしまうハズです。こちらは「神ではないものとしてのエゴ的なもの」には重きを置きたくないわけです。
エゴに基点を置いている限り、エゴを取り去ることは出来ませんからね。
とまぁ、キャラクターに感じる生々しさの話題です。
「キャラ立ち」に関しては、話を引っ張るか、話を破綻させるかって見解の相違があるわけですね*2。「主体」*3を天意を受けた存在として捉えるか、反逆者として捉えるかみたいな。
僕としてはキャラクターを「人間が神に近づくプロセスにある存在」として捉えたくないなー。這いつくばって足掻いて死ね! みたいな。這いつくばって足掻いて天意に恭順しろ! かも。エゴイスティックな天意への恭順、みたいなのが好きなんですね。
一方アダギウムさんは「キャラクターの天意あるところ」を主体として捉えているのかな。ナチュラルにエゴを消し去っていくような過程が好きなのかなー、などと。
皮膚感問題
んで、これを受けて「皮膚感のある漫画」とは、「皮膚感」とは何ぞや? ってことに本当は入っていくんですけどね。体力が尽きてギブアップしてしまいました。というか、これ以外にも話さないといけないことがたくさんある気がするんで、気が遠くなりそうだけど、いつかたどり着けるといいなぁ。
やり取りに関しては皮膚感の欠如 - Nobody tells the storyを参照のこと。