好みの話と今まで語られてきたもの
印象的に。
世の中全部オナニーじゃねーか! というテーマは明治以降文学がずっとやってきた。
パターンとしては「オナニーじゃいやなんだ、セックスがしたいんだ」*1であるとか「オナニーしかできないんだ、開き直って積極的なオナニーを」*2なんかが多い。エンターティメントだと「これがセックスだ!」*3という話が多いように思える。純粋にオナニーとセックスの違いについてとうとうと考える作品は余り多くないが、オナニーであることに悩むことが文学のドラマツルギーの一部として組み込まれてきたのはそう的外れではないはず。
義務的なオナニー、擦りすぎてもう痛いのにオナニーをやめないような状況にこそ、崇高な理想とか神聖な行為を見出すのではないだろうか。
というのは、実存主義とかに被れた人達に多い話。*4僕の好みのど真ん中。
それにどうやったらセックスなんだろうなぁ。
これはポストモダン以降のテーマに思える。価値観が多様化して、これがセックスだ! と確信できない人達の物語。社会とどのようにファックしたらよいのでしょう。*5という悩みの話だと思う。
「どのようにすればセックスかわからない」ので、そこはもうテーマの記述における説得力(リアリティ)の問題なのだと思う。セックスは如何なるものか? の結論に対して、どうして? が書かれていない作品は、テーマの話として駄作。筋の面白さというのは別の評価軸。
言いっぱなしジャーマンはラノベに多い。優秀なラノベだと「考えるんじゃない、感じるんだ」で納得してしまう不思議なパワーがある。ちなみに僕が読むラノベは純粋なエンタメしていないことが多いので、偏りがあるのは認める。
ところで『神様家族』を読んだことないのだけど、ストレートに家族愛を書いているらしい。日本人にはこういう、さらっとセックス*6を書く作品は少ないので、ちょっと読みたい。
冨野が仮想敵にクレヨンしんちゃんの映画版の監督の名前をあげていたことがあるらしい。正面からベタに愛を書いて嫌味がないのは、かなり難しいのだろうなぁ、そこらへんが冨野の評価ポイントだったのだろう。
要するに日本人は『フルハウス』を作るのが苦手なのだろう。というわけで、何がセックスかわからなくなったら、アメリカのホームドラマを見るのが良いように思う。
一応返答に変えてということで。