改革を止めるな?

 某アダギウムさんの所で気になる記事があったのですが、ここんところ忙しくて遅くなってしまった。今週徹夜三回目、そろそろ起きてて40時間くらいになるので、ちょっと攻撃性が低くなっておりますが頑張ります。
魔法先生ネギま! 202時間目 - もめんたむ ( 質量 × 速度 )

とりあえず個人的な欲求としてフェイトを倒したいという部分が炙り出された、ぐらいの意味で見ておけばいいのかも知れません。某s氏から「合理的じゃない!」とか言われそうですが(笑)

 合理的じゃない! 僕の読みとり方が一番合理的なんだ!

前フリというか趣味の話

 「過酷な描写」という言葉で思い浮かべるのは、人それぞれ違うと思うのですが、割と分かりやすいのはエログロですね。くぱぁ(寄生獣)とか、ひき肉(SevenSeeds)とか、焼肉(封神演義)とか、デコスケ野郎とか、後はエロゲ方面でたまにある肉体改造とか、破壊とか、ダルマとか、カニバリズムとか、氏賀Y太みたいなやつ。
 僕はそういったものを別に好きではないですが、特に気にせず読めます。というか、テーマ的な要求にしたがっているかどうか? が重要であって、表面的なショックを与えようという演出だと「ハイハイ、グロイグロイ」くらいに冷めてしまうので、邪魔なことすらあるよなーと思うくらい。
 こういったグロいとも思えるような描写が、テーマ的な意味合いがしっかりあると「ああ、この作者はなんと酷いやつなんだ。最高だ」と思えるので、そういう方向なら好きかな。他に氏賀Y太みたいのは「ああ僕はなんて卑しいんだ」となって楽しむものと個人的には思う。
 それで、テーマ的な要・不要となると必ずしもグロである必要はなくて、大体「過酷な描写」って挫折をもたらすものであるとか、キャラクターが自分の心根の醜さに悶えるようなものが過酷な描写ですよね。そうすると、そこに死であるとかの現象はある意味温い。周囲にとってはともかく、本人的には後はしらね、なわけですから。
 んで、以前書いた記事の反響でやはり多かった、死ぬのは(構わないけど)嫌だなぁという人は、どれくらいのラインまでの「過酷な描写」ならOKなのだろう? ということです。例えば顔に火傷してケロイドが残るとか、動けなくなるとか、発狂する*1であるとか。そういったものをどういった基準で*2どれくらいまでなら読めるのかな? というのが気になります。
 趣味の問題もあると思うのですがテーマ的に「過酷な描写」が必要として、どこまでが許容範囲なのでせう。

本題

 ちょっとここのところの、僕が見に行っているblogでの状況を纏めると、ネギま! が分かりにくい、という意見が多いようです。
 一言でネギま! を纏めちゃえば「ネギのオナニー*3の為にある物語」が現状で、そっから抜け出す物語でしょうねと見れば、結構スッキリとみれると思うのです。要するに人から信頼を受けて、信頼を返せる人間と、それに足る器を手に入れるような物語とでも言えば良いでしょうか? 器はでっかいかもしれないけど、底に穴が開いている、みたいな?
 んで、ネギのオナニーが許されている状況にイラっとくることもある人達がいわゆるぶっ殺せ系の人達なわけですね。多分。自分のことではないので、断言はできません。
 さて、筋は完全に一本芯が通っている*4と思うわけですが、それでも読めない読みにくいという話がでていて、そこんところが議論になっていたりするのですが、石原莞爾? みたいな話になっていて興味深いです。
 興味深いのですが、今はこういう方向に進んでいるのではないかな? という指針をある程度把握することで、わからないという人達も読めるようになるのではないかな? というお話。
 たわ言 - もめんたむ ( 質量 × 速度 )
 実はこっちの記事の方が気になっていて、この記事に

ネギまも構造のたて直しの時期に来ていると感じていて
(中略)
多対多の集団戦闘がそれに当たるのかもしれない。

 ああ、なるほど、と。多分そういう時期だよね、と僕もしみじみ思います。そして多対多というのはないだろうなぁ、と思っていた*5のですが、当たらずとも遠からじかもしれない。
 多分、群像劇的方向に来ているんじゃないかな? と思うのです。なんでかについては勘!(笑)。記憶喪失とか、ばらばらに別れてとか、そういう方向だから。ここで面白いのは、もし本当に群像劇に進むなら「異世界編に来てから群像劇の方向へ」となることなんですよ。
 日本のオタクカルチャーで、群像劇の手法は割りと多く使われていますが、それは大概*6「箱庭系」なんですよね。世界や人間関係が限定されているから、割と群像劇にしやすいのではないかな? と思っています。
 んで、「箱庭系」の外に飛び出てからそういう方向に進んでいるのか? と思うと、ちょっと胸がワクテカしますね。
 そして僕がいま、たまたま読んでいるのが

七王国の玉座〈1〉―氷と炎の歌〈1〉 (ハヤカワ文庫SF)

七王国の玉座〈1〉―氷と炎の歌〈1〉 (ハヤカワ文庫SF)

ジョージ・R・R・マーティン氷と炎の歌シリーズなんですね。
 この本の面白いところの一つに、お話の構造が繊維束のようである、というところがあると思うのです。一本一本の繊維がそれぞれ個人の物語であり、それらが絡み合いながら物語が進み、ふと一歩引いたところから見てみると、それら繊維が束になって作り上げる、大きな物語が出来上がっているのですよ。それが凄い興奮するつくりなんですね。
 筋が中心になっている状態で、群像劇の方向に舵を切るということは、そういった話になる可能性もあるかもしれない! そう思って結構ホクホク気分であります。
 最近のネギま! の筋がわからない、と思う方は、ちょっとそういった方向に進んでいると期待してみると、見えてくるものがあるかもしれないなぁ、と言う話。当たるも八卦な話ですが、どういう話なのか? という推測を立てながら話を読むと、物語の見え方がぜんぜん違ってくるので、僕と同じ読み方をしろとは一切思いませんが、そういった読み方もどうでしょうか?

 まきがいさんに「その理屈はおかしい」という予定だったのに、疲れてて無理だこりゃ。

*1:発狂って救われちゃっているから余りキツイ感じがしないですね

*2:例えば単純に、内臓はダメとか、グロはダメ、色々あると思いますが

*3:精神的な意味のね

*4:僕の見方が正しいという前提ですが

*5:というか多対多の戦いを見ると一つの戦いにン年かかってしまうが

*6:というか、筋が中心のものでは思い浮かばない