意見を述べることの責任

 多摩坂さんと絡む機会があったので、前々から考えていたことをちょぼちょぼ。
http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20071104/1194188419

一つ。

評を公にすることによって裁かれるのは、対象となる作品よりは評者の趣味と見識だということ。

 この話は批評に限る話ではない。何か行動すること、話すこと、全て誰かに評価されるのだ。
 さらに重要なのは、その評価は人に影響を与えることだ。誰かが書いた評価を、一人の作家が深刻に評価することで潰れることもあるかもしれない。誰かが扇いだ団扇の風で、桶屋が儲かるかもしれない。
 僕達の一挙手一投足、一呼吸はどこかの誰かにプラスであれマイナスであれ、影響を与える。どんな行為であれ、影響が一切ないとするのは非現実的だろう。そして他者に与える影響に、僕達の責任は発生する。

(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
「―を果たす」「保護者としての―」
(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
「―をとって辞職する」「だれの―でもない」「―の所在」「―転嫁」
(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
の意味 - goo国語辞書

 字引的には上記の意味だが、ここで論じる責任は(2)に近いだろう。そして、「責任をとる」のは義務ではないと思う。世の中には取りきれる責任など存在しないからだ。人に与えた影響を拭い去ることはできない。よしんば拭い去ったところで、拭い去ったという影響を与える。
 履行不可能なことを行うとするのは、むしろ権利なんだ。
 僕達は何かすると責任が発生する。その事実とどう向き合うかは自由だろう。責任を恐れ何もしないのも良い、責任を取ることをせず生きるのも良い。義務ではなく、権利なのだから「べき・べかざる」は存在しない。
 ただ一つ言えるのは、権利だから軽いのではない。むしろ権利だから、重いのだ。責任を取るという行為に、誰かから言われたは通用しないし、自己の意思決定をどのように行うかが問われる。その重みはシーシュポスが押し上げる岩の重みに似ているかもしれない。