ディバイデッド・フロント

 ちょっと信者なので色々痛いかも。省みる自信がありません。
 
 世界各地で突如あらわれた怪物たち、憑魔。それらを隔離し国民を守るために作られた戦場、北関東隔離戦区。そして憑魔と戦う自衛隊員たちには共通の特徴がある。肉体のどこかに憑魔を宿していることだ。憑かれた瞬間に彼らは、それまでの生活を捨てて国民を守る盾になることを強制された。
 彼らの戦いに終わりは来るのか。
 

 ディバイデッド・フロント 高瀬彼方
 絶望的な状況というもの深い、ふかい闇に似ている。音を吸い込むその闇は、助けを求める叫び声も闇の中へ沈めていく。そうして絶望的な状況のなかで声を嗄らし尽くした人たちは諦念を覚えて、他者への恨みだけを覚えて沈んでいく。
 絶望的な状況と苛酷な状況は違う。苛酷な状況は万人に等しく与えられ、それを乗り越えられたり、乗り越えられずに絶望的な状況になったりする。絶望的な状況にいる人へ、多くの人は努力するしかないと言うだろう。それは戦術的に正しい。けれど絶望的な状況にいる人たちが求めるのは、戦術的な正しさではない。見通しのきかない暗闇を照らす何かなのだ。
 高瀬彼方の書くディバイデッド・フロントは、その何かになる力を秘めた作品だった。読んだとき、暗闇の中に一条の光がみえる。いつ消えてしまうかわからないけど、そこにあると確信できる力強い光だ。
 この作品の魅力は大別して二つある。一つはビルドゥングスロマン(=成長物語)としての魅力と、キャラクター小説としての面白さだ。この二つを縦糸と横糸にして、高瀬彼方の丁寧な描写が物語を紡いでいく。その紡ぎ方は緻密で二つに分けて語ることは難しい。
 

「少年」の輝き

 この作品が絶望を照らす明かりに思えるのはなぜだろうか。それは「少年」の輝きだと考える。もちろん少年とは主人公である英次のことだ。
 英次はヒーローになる才能を持っている。例えば憑魔に憑かれたことで隔離戦区に送らて化け物たちと闘わされる、その運命に屈しない精神や強い正義感、単純であるが素直であること。一種の類型的な主人公型少年として描かれている。けれどそれは英次=少年の魅力ではない。
 彼が魅力的に思える一番の理由は「成長」にある。人は年を取ると共に成長していき、いつしか自身の「無限の成長」を信じられなくなる。常に遠い頂を、いつかたどり着けると信じて動く英次の姿は幼いころの僕たちの姿だ。少年という鉱石の輝きだ。
 その鉱石は苛酷な状況において熱を帯びて、真っ赤に染まる。高瀬彼方という鍛治士がその真っ赤に染まる鉱石をひたすら叩く。丹念に正確に叩く。それが繰り返される度に英次と言う鉱石は、いっそう輝きをましていく。
 さらに高瀬彼方は鉱石を選ばない。登場する人物全てをたたき上げ、それぞれの輝きを放たせる。
 

それぞれがそれぞれであること

 このような物語は、どうしても教条的になりがちだ。苛酷な状況においては、誰もが戦術的に正しい行動をとることが求められるからだ。だが全ての人が英次のように少年であり続けることはできない。誰もが弱さや怠惰、強いという性質とは反対のものを抱えている。常に前へ前へと成長できるわけでもない。現実への向かい合い方は千差万別だ。
 それを正面から、ディバイデッド・フロントはそのままに描いている。そのせいだろう、全てのキャラクターが好きになれた。内向的で後ろ向きな女の子が戦場で描かれる場合、嫌いになることが多い。物語の後半で、急に女にモテて頭の切れる、力もあって包容力のある「英雄」が出てくればやはり嫌いになる。彼を好きになれたのは少しの文章だった。

「貫く」という言葉がちっとも比喩になってない。俺は自分の心に自分でもよく分からない何かを突き刺し、穴を空け、抉って広げている。そのどデカイ穴に目一杯のガキっぽさを詰め込んで、俺は常に俺らしく現実と向き合う。

 その英雄・和磨の独白に僕はなぜか涙しそうになった。
 
 ディバイデッド・フロントは成長をつづる物語でありながら、成長を正義としない。だが確かな力強さをもつ作品で、よみ終わったとき、素直に自らの戦場へ帰ろうと思えた。それは作品全部としての力だけど、それを象徴するような英次の語りから引いて終わりとする。

連日連夜理不尽な環境で血と汗にまみれて戦い続けて守り抜いた、俺たちの戦場なんだよ――!